「ごめんなさい」なんてそんな言葉、貴方はきっと受け取ってくれないから。
 どうする事も出来ない私は、唯々貴方の名前を呼んだ。





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 張り詰めた空気が、冷たく肌を撫ぜた。石造りの天井は遥か高く、見上げると体が吸い込まれそうな錯覚に襲われる。左右の窓には色鮮やかなステンドグラスが施されており、差し込む光は華やかな紋様を床上に描き出した。
 暖かい。でも、冷たい。
 独特の、何処か奇妙にも思える雰囲気。静まり返った聖堂は昼の陽に照らされているが、四方を石で覆われている為か空気はひんやりとしている。大理石の回廊は白く輝き、華やかな光景が更に際立って。
「アリエノール、後悔はないのかい?」
「そういう訊き方は、ずるいと思うわ」
 目前の男に尋ねられ、金髪碧眼の女性――アリエノールはふと目を逸らした。
 澄んだ空気は清々しく、荘厳な空気が二人を包み込んでいる。辺りには二人の姿しかなく、静謐とした空間に玲瓏とした声が響く。
「後悔は……無いわ。恐れはあるけれど、それは大した事ではないのよ。足りなかったのは、義勇か、或いは蛮勇か。でも、どちらにしても、同じでしょう?」
 言って、アリエノールは男を見上げる。
 自分達はもう、引き返せない所にまで来てしまった。いや、恐らくは随分と前からそういう状態だったのだろう。それでもここまで目を逸らして居られたのは、偏に目前の彼のお蔭なのだ。
 だから、この先にあるのが何であろうと、向き合わなければならないと己に課して。
「もう、逃げるのはお終い。そう決めたから、大丈夫。貴方の方こそ、後悔は無いの?」
 自分の目線よりも高い位置にある彼の双眸を捕らえ、アリエノールは問い掛ける。すると瞳を覗き込まれた彼は困った様に眉尻を下げ、僅かに笑みを漏らしながら息を吐いた。
「後悔は……無い。心配は絶えないし、気掛かりな事も多いが」
「心配?」
「ああ。私なんかが帝国の主になって良いものかどうか、正直今でも自信が無い」
 我ながら情けないな、と男は呟き、微かに眉を顰めたアリエノールを見遣った。
 透き通る様なアリエノールの碧目。その瞳に濁りはなく、吸い込まれそうになる程深い色を湛えている。何時だったか、初めてこの碧眼を見た時、あの時からその色に変わりはない。
「何を言っているのよ、もう。貴方はもう少し胸を張っているべきだわ。私はね、貴方『で』良かったのではなくて、貴方『が』良かったの。私が、貴方を、選んだのよ」
「有難う、アリエノール。そう言ってもらえると嬉しい。だがね、祖国を捨て、己が民を捨てた人間に、そんな権利はあるのか?」
 男が言うと、アリエノールは形の良い眉を少し顰めて見せる。深い深い碧の色が、ゆらりと揺れた。
「……何かを得る為には、どうしたって何かを手放さなければならないものよ。ねえ、そうでしょう?」
 数年前二人が生涯を共にする事を誓ったこの場所で、再び二人は互いを見つめ合う。双肩に圧し掛かる重荷も二人で分け合えば大丈夫だと、そう信じて。
「それにあの時、私は凄く嬉しかった。自国を捨ててまで私と生きる道を選んでくれて、本当に、嬉しかったわ。それだけでは、理由にはならないのかしら?」
 何処までも唯ひたすらに目前を見据え続ける瞳。一見すると決して折れる事の無いようにも思えるが、しかしその実、とても脆い。だが≪強い≫彼女はそれを隠す。歪みを隠して、傷を覆う。
 それを知っているからこそ、男はアリエノールに向かって微笑んだ。
「いいや、それで充分過ぎる位だ。だからそんな顔をしないでくれ、アリエノール。大丈夫だ、覚悟なら出来ているから」
 男は軽く腕を伸ばし、アリエノールの頬に触れた。滑らかな白い肌は玉の様に美しく、細い金の髪がさらさらと揺れる。
 この細い肩の上に、彼女は全てを背負わなければならない。だがその荷を少しでも軽く出来るのならば、地の果てまでも共に行こう。そう誓ったのは、何時の事だったか。
「即位式は明日よ。そうしたらもう、貴方も私も今のままでは居られない」
 そう言って、アリエノールは赤い絨毯の上に膝を付いた。覚悟はとうに決めている。これから歩むのは茨の道だが、決して独りではないのだから、恐れる事などありはしない。
 アリエノールは軽く頭を下げて男を拝した。今は唯、この静寂だけが耳に痛い。
「陛下。国の為、民の為、その身を捧げると誓って下さいますか」
「勿論だ。神になんか誓わないが、唯、君にだけは誓おう」
「……有難う御座います」
 顔を上げ、澄んだ瞳を微かに濡らし、泣きそうな表情で彼女は微笑む。硝子の様な碧い瞳が不安定に揺れるが、その表情は変わらず凛として気高い。この瞳に宿る光だけは、何時だって消える事が無いのだ。
 陽の照らされた金糸が眩しく輝き、再び静寂が辺りを包んだ。





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 大陸一の面積を誇る巨大帝国ペルペトゥスライヒ。
 名君と謳われた皇帝の訃報は一夜にして帝国全土に広まった。民々はその突然な報せに驚き、同時に嘆き悲しんだ。
 そして彼の死後間も無く、皇女アリエノールが夫を皇帝に立て、自身は皇后の座に就く。当時彼女は二十三歳。帝都ヴェルスで盛大な華燭の典を挙げた時から、丁度五年後の事であった。





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