毀された世界の中で、無自覚に、無意識に、しかし残酷に時は流れる。 これは、或る青年と少女を巡る≪I≫の物語。 とある自由で不自由な恋物語
≪−0.01≫ 甘い、香りが、した。 それは或いは気の所為だったかもしれない。 しかし、あの陶磁器の様に白く滑らかで、何処か危さを感じる程に細い指が、腕が、自分を手招いている様に感じられて仕方なかった。少女が自分を呼んでいるのだと、何故だかそう思ってしまったのだ。 引き寄せられて、吸い寄せられて、気が付いた時にはもう手遅れだった。 決して逃げられない様に、頑丈に頑強に、雁字搦めに捉われて。 ――――――――――それはまるで、人形。 ≪000≫ くすくすと、鈴を転がした様な少女の笑い声が響く。それは何処までも澄んだ清廉な声で、灯りの少ない暗い部屋に何とも言えない雰囲気を作り出している。 白い肌。薄い唇。流れる髪はさらりと長く、病弱そうに見える細い肢体は何処か頼り無い。けれどその少女の顔には、はっきりと、くっきりと、愉しそうな表情が浮かんでいて、誰かの反応がある訳でもないのに、くすくすと笑っていた。 「郵便屋さん、捕まえた」 指先に付着した赤いインク。それは少女の白い肌にとても良く映えていて、少女の持つ不思議な空気を更に奇怪なものにしていた。 否、違う。それが唯の赤いインクなどではない事は、少女の足元に落ちているオーナメントが物語っている。赤と云うよりは、赫と云った方が正しい様な、そんな、色。 「もう、逃がさない」 くすくすと、濁りの無い少女の笑い声が響く。 それに応える者は、矢張り、いなかった。 ≪001≫ 重い。 まず最初に思ったのは、そんな事だった。 腕が、脚が、瞼が、頭が、全身が自分のものとは思えない程に重い。けれど、己の上に何かが乗っているという事ではなく、寧ろ体の内側で、あちこちに張り巡らされた赤い管を伝い、何かしらのものが徐々に浸透して行く様な、そんな気配だった。 そして次に感じたのは、鈍痛。 体を動かそうと試みた所で後頭部に痛みが走り、脳内でちかりと光が閃く。何が起こったのか状況を理解しようと思ったものの、辺りを取り巻いているのは果てしない暗闇で、彼の視神経はそこに漆黒以外の何をも捉えられなかった。 行き着く先が何処なのか、彼には未だ分からない。 ≪02.0≫ 「お早う御座います、郵便屋さん」 ふと、そんな声が室内に響いた。 地に倒れ伏せていた青年はゆっくりと瞼を持ち上げ、緩慢な動作で首を回して辺りに目を遣る。其処にあるのはぼんやりとした薄闇で、その中に浮かぶ少女の白い肌が不気味に思えてならなかった。 「力の加減というものが分からないものですから、少し外傷を与え過ぎてしまったかもしれません。あんまりにも赫いものが沢山出て来て、ちょっと焦ってしまいました。私とした事が……浅薄でした」 言って少女は薄く笑う。くすくすという笑い声が大きく聞こえて、青年の鼓膜を異常なまでに振るわせる。ああこれは一体どうした事だと青年が表情を強張らせると、少女は愉悦の色を浮かべたまま青年の鼻先に自分の顔を近付けた。 「ずっとずっと、こうしたかった。貴方を捕えて、閉じ込めてしまいたかった」 何故、とそう問おうとしても、声が掠れて出て来ない。ひゅうひゅうと喉が嫌な音を立て、青年は何もいう事が出来ずに唯々少女の瞳を直視する。そこに秘められているのがどんな色なのか、青年には分からない。 「私は≪人形≫。人に作られ、そして捨てられた存在。古びてしまったこの体は陽を浴びたら即座に崩れてしまう。だから主様は私にこの屋敷を残して下さったのだけれど……勝手なものですよね。私は生まれたくて生まれて来た訳でもないのに、可愛い可愛いと愛でておきながら、不要になったら何の迷いもなく置き去りです。本当に、何て傲慢な」 くすり、と少女はまた微笑う。同時に色素の薄い髪がさらりと揺れ、上体を少し起こした青年の頬に掛かった。 鼻を擽る甘い香りは矢張り彼女のもので、愛らしく美しい微笑も、変わらない彼女のものだった。 「だからね、私、貴方のあの優しい笑顔を、跡形もなく壊してみたかった。ずたずたにして、ぼろぼろにして、そして貴方の顔に憎しみが浮かぶ所を見てみたかった。貴方の表情は何時だって優しそうで、嬉しそうで、幸せそうで、そんなものを信じている貴方を、私は、この手で、壊したいの」 ねえ郵便屋さん、と少女は言って一段と嬉しそうに笑みを浮かべる。 ああもう後戻りは出来ないのだと、青年はそう悟った。 「――――――――――だから絶対逃がさないわ、郵便屋さん」 くすりくすりと少女は笑い、その声が室内に反響する。 これは、或る青年と少女を巡る≪哀≫の物語。 ≪030≫ 万物が流転するのは世の摂理。それは何時何処に居ても変わらぬ真理。 だから、日は昇り、やがて落ちる。 しかしこの場所にはそんな外界の変化は何ら関係のないもので、少女にとっても青年にとっても、そんなものはもう既に過去の思い出だった。決して戻る事はない、そして恐らく、回顧する事さえない思い出。 「……御嬢さん」 掠れた声が青年の喉元から零れる。最低限の水と食料しか与えられていない彼にはそれが精一杯で、少女もそれを理解しているの だろう、青年が音を発したというだけで彼の方に注意を払った。 「何ですか?分かっているとは思いますけど、逃げ道は何処にもありませんよ?」 少女はにっこりと愛らしい微笑みを浮かべ、青年を向いてそう尋ねた。しかし青年はその微笑を見て口を噤み、唯押し黙ってゆっくりと首を横に振った。 ――――――――――あの微笑に、掛ける言葉はない。 あんな≪人形≫の表情に対して、言える事は何もない。言いたい事も、何もない。言うべき事は、何も、なくて。 ――――――――――ああ、御嬢さん。君は何時になったら。 何時に、なったら。 嗚呼何時になったら、≪彼女≫は己の望む≪彼女≫に為ってくれるのか。 そんな、もう何度目になるとも知れない問い掛けを胸中で呟き、青年は薄っすらと笑みを浮かべてみせた。 怯えも、恐れも、そんな陳腐な感情は、何時の間にか心の中から消え去っていた。彼女に対して恐怖の念を覚えるというのは詰まり、少女に敗北するという事で、少女に屈するという事で。 ――――――――――早く、早く。 そう思う度に胸が逸る。 少女のその愛らしい笑顔を、と、腕を伸ばしたくなってしまう。 彼女の求めているものを与える心算はさらさらない。少女が青年の笑顔が歪む所を見たいのならば、青年にとってはそれを見せなければ良いだけの話なのだ。 此処から逃げる心算も毛頭ない。逃げようとした所で恐らくこの少女からは逃げられないだろうし、青年が望むのはそんな事ではなくて、そんなものではなくて。 だから。 「――――――――――愛しているよ、御嬢さん」 小さな声でそれだけを呟いて、青年は少女の額に唇を寄せた。乾いた感触に不快感を覚える事もなく、寧ろ充足感の様なものに身を浸し、少女に向かって唯笑んで見せる。 すると少女は、驚いた様に瞠目して、また、微笑った。 ――――――――――違う。 違う。そう、違うのだ。 見たいのはそんな表情ではない。そんな笑みではない。もっと別の、もっと異質な、しかし青年が何より最も望むもの。 それは。 ――――――――――もっと歪んで その美しい微笑をが、悲しみに、苦しみに、或いは悔しさに歪んで、消え去る瞬間を見てみたい。この手であの微笑を壊してやりたい。それこそが二人を繋ぐ思いであり、何時までも変わらぬ望みであって。 彼女を毀して、みたかった。 これは、或る青年と少女を巡る≪愛≫の物語。 ≪???≫ 3 u q ↑ 0 3 e d w e j r
...end?
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