forgive me, please







「フィデリオ様、つい先程城から早馬が……!」
 鬱蒼と茂る、暗い緑の森。その陽の当たらない森の中で、フィデリオと呼ばれた青年は背後から聞こえた声に振り返った。隣に控えた臣下も声の方を振り返ったのを横目で見て、木々の向こうから駆けて来る人影に目を遣る。茂みの向こうに見える、短髪で地味な色の服を纏った従者の姿。それは何故か慌てた様子で此方に向かって来る。
「どうした」
 青年の隣で男が問い、従者は青年の目前で膝を付く。小さな息切れ。上下する肩。妙な沈黙が訪れ、静寂が場を支配した。
「――ナターシャ様が、城を出られたそうです!」
「何?!」
 従者の言葉に、青年は目を見開いた。言われた言葉の意味が分からず、否、その意味を理解したくない為か、青年の思考は上手く働かない。
「ナターシャが?!どういう事だ!何処へ行ったのか分からないのか」
 青年は声を張り上げ激昂するが、従者は目線を下げたまま頭を横に振る。
「申し訳ありません。只今、至急馬を走らせている所です。門番の話によると、ナターシャ様は乳母だけを連れ、城の者には何も言わず馬車を出すようにと仰ったとか」
「この様な時に、どういう事だ」
 青年は軽く舌打ちをし、従者の向こう――先刻青年が馬を停めて来た方角へと駆け出した。これは一刻を争う事態だ。早急に動かねばならない。
「フィデリオ様、何処へ行かれるのですか」
 突然駆け出した青年に配下の者が声を上げる。その臣下の声を背中で聞き、青年は駆けながら男に怒鳴った。
「付いて来い、ナサニエル。鹿狩りは中止だ。休暇など取っている場合ではない。城に戻る!今直ぐにだ」 「はっ」
 青年は馬に飛び乗り手綱を握る。足で馬の腹を挟む様にして蹴ると、促された馬は大きく嘶いてから主を背に乗せて駆け出した。
「……ナターシャ、無事でいてくれ」
 風を切る音を頬で感じながら、青年は小さく呟く。
 自分にとっては、彼女だけが救いだというのに。彼女までも居なくなってしまったら、彼女までも奪われてしまったら、一体自分はどうすれば良いというのだ。



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 がたごと、と音が響く。振動が伝わり、体が小刻みに揺れる。あまり心地良い物ではないこれも、長い間感じていると予想外に慣れてしまうものだ。何となくそんな事を思いながら、少女は馬車の窓越しに外の景色を見た。
 緑の森。暗い森。深い、深い森。
「……ナターシャ様」
 直ぐ傍で乳母が控えめに名を呼んだ。少女は振り返り、微笑を浮かべて乳母を見遣る。
「何ですか、セレステ。どうかなさいました?」
「いえ、あの……フィデリオ様に御言伝も無しに、宜しかったのですか?」
 乳母の問いに少女は眉尻を下げ、上品な微笑みを浮かべて答える。
「良かったのですよ、これで。お母様が亡くなって、フィデリオ兄様は私に甘くなりました。更にはお父様までお亡くなりなって、兄様は私に対してあまりに過保護になりました。けれど兄様も今はマクレラン家を継ぐお方。私にばかり構ってはおられません。余計な心配事はして頂きたくないのですよ」
 少女は膝の上に乗せた万華鏡を白く細い指で撫でながら言う。何時も彼女が大切にしている万華鏡。これは、今は亡き父が誕生日にと言って買ってくれた物だ。精巧な作りをしたそれは美しく、当時まだ幼かった彼女は随分と喜んだものだった。
「ナターシャ様……」
「大丈夫。大丈夫ですよ、セレステ」
 柔らかい少女の声音が馬車の中に響く。そして、乳母は唯、目を瞑ってそれを聞いていた。少女がこの世に生を受けたその時から、乳母である彼女の生涯は、この少女に捧げられているのだ。



+ + +




 紅い絨毯。金の窓枠。光沢のある荘厳な扉。
 煌びやかな物品で埋め尽くされたその部屋は、マクレラン公爵家のマクレラン城の一角にあった。その、大理石の廊下を抜けた先、少し開けた所にある部屋の中で、数人の男達が剣呑な顔付きで言葉を交わしていた。
「ナターシャ様の馬車は未だ見付からないのか。捜索隊は一体何をやっているのだ」
「しかしナサニエル殿。当ても無く闇雲に捜した所で、時間を無駄に浪費するだけではないでしょうか」
 返された言葉にナサニエルと呼ばれた男は眉根を寄せ、不機嫌そうに顔を顰める。
「それでは、何だ。貴殿はナターシャ様の御身が心配ではないのか」
「なっ……」
 言われた男は一瞬言葉に詰まった。
「そのような事は、断じて申し上げてはおりません」
「では何だと言うのだ」
「――やめろ、二人とも。見苦しい」
 言い合う二人の男に、この中では一番歳若い青年が言い放った。その言葉に二人は我に返った様に視線を上げ、反射的に姿勢を正す。
 険しい表情を浮かべている主君の姿はしかし、取り乱している様には見えない。二人の男は先程の自身の言動を思い起こし、恥を晒してしまった事に気が付いて下唇を軽く噛んだ。
「ここで言い争っていても何にもならないだろう。それこそ時間の無駄だ。皆、先ずは落ち着け。全てはそれからだ」
「申し訳御座いません」
 ナサニエルは軽く頭を垂れ、それから思考する。
 事実上現在のマクレラン家当主はフィデリオという事になっているが、前当主オールディス・マクレランの死後、次期当主を決定するに当たっては数々の諍いがあった。オールディスの息子であるフィデリオが家督を継ぐのか、オールディスの弟、つまりはフィデリオの叔父であるオルグレンが家督を継ぐのか。マクレラン家の臣下は二つの勢力に分裂し、フィデリオとオルグレンは対立する事になった。そして、今に至る。
 表面上はもう結論の出た話だが、未だにオルグレンの勢力はマクレラン城の側に荘園を持ち、地方豪族としての地位を保ち続けている。そう、未だに緊迫した状況にあるのだ。
 もしもこの状況でナターシャがオルグレン達に攫われる様な事があれば、間違い無く先方は家督を譲る様に要求してくるだろう。そんな事態は招いてはならない。それだけは、絶対に避けなければならない。だが――
「――フィデリオ様!ナターシャ様の部屋から奇妙な手紙が!」
 突如として部屋の扉が開いた。同時に血相を変えた下人が一人部屋に転がり込んで来る。場に居た男達は一斉に振り返って、下人に詰め寄った。
「何だと?!」
 フィデリオは声を荒げ、下人の手に握られた羊皮紙を奪い取る様にした。汗ばむ手でそれを広げ、臣下と共にそれを覗き込む。
「なっ」
 男達は息を呑み、険しい表情を湛えて指示を仰ぐ様に君主を見遣った。
「……卑怯な真似をするものだな、叔父上も」
 青年は唯目前の羊皮紙を睨み付け、悪態を吐く様に言葉を漏らした。
 ふう、と軽く溜息を吐いて、青年は顔を上げる。
 留まっている訳にはいかない。停滞する訳にはいかない。何かを護る為には、何かを手に入れる為には、待っているだけでは、駄目なのだ。動かなくては。行動に移さなければ。
 でないと、手放してしまう。失ってしまう。
 全て、総て、凡て、砂の様に掌をすり抜けて行く。
「――馬を出せ、今直ぐに。取り返しの付かない事になる前に、何としてもナターシャを見つけ出す。付いて来られる者だけ付いて来い!」



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 ――がた ごと    がた ごと

 暗く閉ざされた森の中、足場の悪い道を一台の馬車が行く。
 金が施された煌びやかなその馬車は、一目見ただけでも高位の者が乗っている事が窺える。

 ――がた ごと    がた ごと

 車輪が音を立てて揺れ、車に繋がれた二頭の馬は御者に従って駆け続ける。
 森の暗く深い所を、唯、一台の馬車だけが。

 ――ききぃ―っ

 突如として耳障りな音が響き、馬車の速度が徐々に落ちる。
 御者に手綱を握られている二頭の馬が、不機嫌そうに脚を踏み鳴らしつつ何故だか動きを鈍らせた。何が起ころうとしているのか、馬達は無意識の内に知っているのだ。

 ――ざぁっ

 雨でも降って来そうな程の湿った風が木の葉を煽り、光の入らない森の中に葉と葉が擦れ合う音が響く。
 それはまるで、何かの前兆の様で。

 ――がさっ

 土を踏み、枝を踏み、葉を踏む様な音がした。
 刹那、黒い影が何処からともなく現れて、輝く馬車を取り囲む。馬達は何かを感じたのか高く嘶き、御者は周囲を見回して慌てた様に手綱を振る。しかし行く手を阻む黒い影は、決して其処を退きはしない。

 ――きらり

 木々の間から入って来た一筋の光を、金属の様な何かが反射した。それを目にした御者は恐怖の色を鮮明に浮かべ、手綱を手放し逃走を企て様とする。しかし並んだ黒い影はそれを決して許さない。

 ――ざぁっ

 もう一度風が吹く音がして、それはやがて断末魔の悲鳴に変わった。
 後に残されたのは、鼻を刺すような生臭い臭いと、それを洗い流すかの様に降る雨だけだった。

「――ナターシャ様っ!」

 不穏な空気を感じて窓から外を眺めた乳母は、咄嗟に自らの主君である少女を背に庇った。馬車の外に広がる光景。それは、この乳母の恐怖を駆り立てるには充分過ぎる物だった。
「動かないで下さい、ナターシャ様。一先ず様子を窺ってみるべきです」
「……セレステ」
 眉を顰めて言う乳母に、少女は困った様な微笑を浮かべる。
「貴女様はマクレラン家の姫様でございます。このような所で――」
「セレステ」
 強い言葉で少女は乳母の言を遮った。その言葉に乳母は目線を上げ、少女を見詰め返す。
 その瞳は不安定に揺れ、少女に懇願するかの様な色を湛えている。しかし少女は、静かに首を左右に振った。拒否ではなく、否定でもなく、唯、全てを受け止める様に。
 乳母は大きく目を見開き、何かを言おうとして、やめた。乳母である自分には、乳母でしかない自分には、もうこれ以上、何も言えない。これで最後。これが、最期。
「セレステ。扉を、開けて下さい」
 馬車の入り口を指差し、少女は乳母に言う。従順な乳母はそれに頷き、扉を開けて、少女を庇いながら土の上へと降り立った。
 そして。

 ――ぐさり

 そして次の瞬間、乳母は地に倒れ伏せていた。
 焼ける様に胸が熱い。どくどくと何かが溢れ出ている。視界が霞み、段々と目の前が見えなくなっていく。

 ――ああ、ナターシャ様

 彼女が最期に見た物。それは、何かを呟いた主君の姿だった。少女は唯一言、小さく、何かを告げた。
 それが感謝の言葉だったのか、謝罪の言葉だったのか、それを知る者は、もう居ない。



+ + +




 降りしきる雨。それは容赦無く叩き付け、馬に騎乗した青年の体温を奪って行く。
「……ちっ」
 木々と雨によって視界が遮られ、青年は軽く舌打ちをした。先刻から降り始めた雨は一向に止む気配を見せず、青年を隔離するかの様に彼の行く手を阻む。雨粒は車輪の跡を消し去り、雨音は馬車の音を消し去る。
「フィデリオ様。この天候では、これ以上捜索を続けるのは困難だと思われますが」
 馬で駆けながら隣の臣が進言した。周囲を取り巻く臣達もそれに同意する。だが青年はそれを聞き入れない。
「そう思うのならお前達だけでも帰れば良い」
「そういう訳には参りません。貴方様はもうマクレラン家の当主。その自覚をお持ちになって下さい」
「自覚を持った上で、こうして行動している」
 青年は言い捨て、前を見据えた。一向に手掛かりが掴めない状況ではあるがしかし、留まっている訳にはいかないのだ。ナターシャまでも手放してしまったら、妹までも失ってしまったら、自分は本当に、全てを失くしてしまう。
 執着、しているのかもしれない。執着して、依存して、固執して、拘泥しているのかもしれない。でも、それでも、今、マクレラン家当主の自分に残されたのは、妹という存在だけだから。
「これが最後の我儘だ。……少し、振り回されてはくれないか」
 眉根を寄せ、青年は言の葉を絞り出した。たった一つ、最後に残された我儘。これだけは捨てられない。
 たとえ、何が起ころうとも。



+ + +




 暗い、深い森の中。
 少女は地に伏した乳母を見ながら、馬車の扉の前に独り立っていた。
 正確には一人ではないのだが、彼女にとっては独りで居るのと同じ事だった。どちらにせよ、待ち受けている未来に変わりはない。
 少女はゆっくりと瞳を閉じ、そしてしなやかな動きで土の上に降り立った。何故だかあっさりとした表情を浮かべて、黒い影達を見遣る。

 ――ごめんなさいね、セレステ。

 小さく胸中で呟いて、そして薄く微笑んだ。

 ――それから、今迄有難う。感謝しているわ。

 少女は最期まで微笑を絶やさずに、誰にも聞こえない声で呟いた。



+ + +




 振り続ける雨の音。走り続ける蹄の音。頭に染み付いて離れない音を聞きながら、青年は顔を顰めて手綱を操っていた。
 早く、彼女を見付けなくては。手遅れになる前に。戻れなくなる前に。
「……何だ?」
 ひくひくと鼻を動かす騎馬を見て、青年は怪訝そうに呟いた。この先に何かあるのだろうか。何かがあるのだとしたら、一体何があると言うのか。
「――フィデリオ様!」
 誰かが叫ぶ、声がした。
 青年はふと手綱を緩める。自分は何を見ているのだろう。夢だと思いたい、夢だと願いたい。けれど、そんな事は、夢物語にも成りはしない。
「フィデリオ様、これは……」
 手綱を引いて騎馬を停め、飛び込んで来た光景に男達は目を見開いた。
 息を呑んで、唯それを見る。
 血に塗れた、絢爛なる馬車を
「――ナターシャっ!」
 掠れた声で叫び、青年は騎馬から飛び降りた。降り頻る雨で濡れた衣服が、何故だかとても重く感じられる。
「ナターシャ!」
 雨は四方に飛び散った赫を洗い、薄紅色の液体となって地を這っている。それが飛び跳ねるのにも構わず、青年は声を張り上げて馬車に駆け寄った。
「くそっ」
 小さく言の葉を溢して、青年は力無く膝を付いた。目の前に横たわる冷たい肢体。土の上にぼんやりと浮かぶ、青白い死体。
「っ、ナターシャ――これは、裏切りだぞ!」
 ぎりりと下唇を噛み、青年は俯いた。
 如何して、何故。そんな問いは今、此処には必要無い。そんな事はもう分かりきっているのだから。
「……ナサニエル」
 小さく臣下の名を呼んで、暗雲で覆われた空を見上げる。青年の顔に容赦無く雨粒が叩き付けられ、彼はすっと瞳を閉じた。
「何でしょう」
 背後から臣下の声が響いた。聞こえるのは、唯、雨の音。
「兵を出す。目的はわざわざ言う必要も無いだろう。お前なら分かる筈だ。近隣の諸侯へ親書を出して援軍を求める。兵はそれで充分過ぎる程だ」
 青年は振り返り、確かな足取りで地を踏み締めた。これが自分の決断で、そして、この裏切りこそが、妹の決断なのだ。
「何を立ち尽くしているんだ、お前達は。直ぐに城に戻って挙兵の仕度をするぞ」
 眉根を寄せたまま青年は言った。そして気が付いた様に足元を見遣ると、小さく溜息を吐いて雨に濡れた髪を掻き揚げた。
「誰か、こいつらを片付けてやってくれ。雨の中に置かれたのではあまりに不憫だ」
 雨の音が響く中、からからと音を立て、馬車の中から何かが転がり落ちて来た。
 ふと青年がそちら目を遣ると、それは妹が大切にしていた、あの万華鏡だった。彼は泥で汚れたそれを手に取り、暗い空に向かって掲げた。彼女は未だ、この万華鏡から見えた美しい景色を、覚えているだろうか。
 馬に跨り、青年はもう一度手綱を握った。全てを捨てよう。総てを投げよう。そして、凡てを受け入れよう。
 妹はもう自分の道を選んだ。自分で途を、選んだのだ。だから、此処で待っている訳にはいかない。
 歩こう。これからは、一人で。それでも、独りにはならないから。





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