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許して、どうか








 がたごと、と音が響く。
 振動が伝わり、体が小刻みに揺れる。馬車の窓越し、そこにあるのは、緑の森。
 暗い森。

 深い、深い森。


「……ナターシャ様」


 白い肌。碧い瞳。薄く輝く金の髪。儚げな少女の横顔を覗きながら、乳母は軽く眉根を寄せた。
 何かが起こりそうな気がする。何かが、起こっている様な気がする。


 ――がたん ごとん
  

 少し、先程よりも振動が増した。森の深い所に入ったのだろうか。そう思った乳母は窓越しの風景に目を遣った。
 暗く閉ざされた森には光など入って来ない。其処には唯暗い緑が拡がっている。


「ナターシャ様」


 眉を顰め、乳母は諫める様にその名を呼んだ。
 しかし少女は振り向きもせずに一点を見詰め、乳母の言葉に耳を貸さない。


「ナターシャ様、何処へ行かれるお心算ですか」


 乳母は僅かに声を荒げ、少女に問い掛けた。森の最深部を通る位なら、たとえ回り道になったとしても、森の周囲を走った方が安全なのだ。しかしこの少女は何故、危険の多い方を選ぶのか。より安全な方法を取ろうとしないのか。
 まるで、自ら危険の中に飛び込んで行くかの様に――


「まさか、ナターシャ様っ」
「――ねえ、セレステ」


 呼び掛けを遮られ、乳母は声を途切った。口を噤んだまま、振り返りはしない少女の横顔を見詰める。
 透き通る様に白い肌。今にも壊れてしまいそうな、そんな雰囲気。


「少し、譬え話をしましょうか」


 嘆願するかの様に、懺悔するかの様に、少女は静かに言う。


「……ある時ある所に、一人の姫君がいらっしゃいました。彼女はある日、誰にも告げず、僅かなお供だけを連れて城をお出になりました。それを知った姫君の兄上は、彼女の身をとても案じました。何故なら、ここ最近隣国との関係が悪化していたからです。妹の身に何かあったら。そう思って皇子は出来る限りの兵を集め、寝食も忘れて姫君を捜索しました。しかし彼の努力も空しく、姫君の姿が見付かった時には、彼女の体はもう冷たくなっていました。・・・・・・では、姫君を殺めたのは、一体何処の誰でしょう」
「ナターシャ様、それは」


 乳母は何かを拒むかの様に、小さく左右に首を振って言う。
 しかし少女はやはり微笑み、それから窓の向こうを見遣った。


「この森、暗いわね。賊でも出て来そうだわ」


 薄っすらと笑みを浮かべて少女は言う。


「こんな馬車が走っていたら、目立つかしら」


 小さく呟かれたその言葉は、車輪の立てる耳障りな音よりも更に大きく響いた。


「――ねえ、セレステ。貴女は、少しだけ私の我儘に付き合って下さいますか?」


 少女のその瞳に乳母は一瞬目を奪われ、そして、少女と同じ様に微笑み返した。


「今更何を仰るのです。私はナターシャ様の乳母。貴女様がお生まれになった時より、この命は貴女様の物。お好きな様にお使い下さい」


 座ったまま深々と頭を下げる乳母。それを見詰め、少女は僅かに眉尻を下げてにこりと笑んだ。そして一瞬表情を翳らせ、しかしその色を直ぐに消し去る。
 もう躊躇っては居られない。一歩を踏み出したのなら、立ち止まらずに歩き続けなければ。

 セレステを巻き込まない方法も、無かったと言えば嘘になる。だが彼女を連れて来なければ、きっとこの乳母は引き止める為に自ら君主の目前に立ちはだかっただろう。だから、こうするより他に無かった。最良の策では無いかもしれないが、最善の策だったのだ。

 ふと目線を上げ、少女は自嘲気味な笑みを溢す。
 こんなのは唯の言い訳に過ぎない。そんな事を言っても、乳母にとっては侮辱にしかならないのに。


「顔を上げて下さい、セレステ」


 結果を生むには、どうしたって原因が必要なのだ。戦を始めるには、どうしたって口実が必要なのだ。それならば、自分が、その口実になろう。自分が、きっかけになろう。それで、大切なものを護る事が出来るのなら。


「もしもこの森で私が見付かったら、間違え無く皆は、オルグレン叔父様が私を殺めたと思うでしょう。そうなる様に、わざわざ自室に手紙まで置いて来たのですから。そしてフィリップ兄様は、妹の仇を討つ為に挙兵なさいます。正義を掲げる軍勢に、きっと諸侯は味方して下さる筈。完全に、完璧に、完膚無きまでに――お兄様の勝利」


 仄暗い森の中を、絢爛に煌めく馬車がたった一つ、がたごとと音を立てながら通り過ぎて行く。それはこの空間には目立ち過ぎる程の物で、幾つもの影が不穏な目でそれを見守っていた。
 それを知ってか知らずか、少女は唯乳母に語り掛ける。


「もしかしたらフィリップ兄様は……いいえ、きっとお兄様は、私の真意に気が付きます。そして恐らくは、これを私の裏切りとお感じになるでしょう。兄を残して、兄の為に死ぬだなんて、お兄様はそんな事をお赦しにはなりません。でも、それでも良いのです。こうしなければ、お兄様を――この家を、守る事が出来ないのですから。」


 にこりと満面の微笑みを浮かべて、少女は乳母の顔を見詰めた。
 そして、少し角張った乳母の手を取り、きつく、固く、握り締める。


「……ナターシャ様」


 乳母は少し困った様に微笑んで、その名を呼んだ。
 最後まで、最期まで、この少女は自分の君主であり、そして――娘であった。

 もう、この場に言葉は要らない。そんな物は無くて良い。
 そんな物は存在しなくても、それでも、二人は、分かり合える。


 ――がたん  ぎぃーっ


 耳を劈く様な音が鳴り、反射的に乳母は少女を背に庇った。馬車は不吉な音と共に動きを止め、その外では数人の足音が騒がしく響く。誰かの怒声。誰かの悲鳴。耳を覆いたくなる様な、そんな音。
 乳母は少女に目を遣り、不安定に瞳を揺らす。


 そして、少女は――




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