何故だと幾ら叫んでみても、答えは返って来なかった。







混濁混迷混茫混然









 波に揺られ、心がざわめく。
 夏の容赦無い陽射しが海面に反射し、舟に乗り込んだ青年達の顔に汗が滲む。湿気を多分に含んだ空気はべったりと肌に纏わりつき、照り付ける太陽と相俟って一層彼等の疲労感を高めていた。
 西国で育った彼等には馴染みの無い東国の気候。時の経過と共に増して来る懐旧の情が、果たして母国を離れてからどれ位になるのだろうかと、青年の脳裏にふと疑問を浮かばせた。
 あの時、青年が祖国を発つと決めた時、確かに彼の胸臆には剛勇たる大志が有った。国の為、家族の為、友人の為、愛する全ての者の為、そして何より正義の為に、彼は祖国を離れて戦う事を決めた筈だった。
 青年は目前に見える小さな島を見据え、きつくきつく拳を握る。肩に掛けた銃が何時も以上に重量を増し、青年は倦怠感を抱くと同時に、微かな安堵をも覚えていた。
 もう直ぐだ。
 嗚呼、そうだ。もう直ぐ祖国に帰れる。足元の安定しない洋上ではなく、久々に地上を生きる喜びを味わう事が出来る。それを考えると些か心が安らぐようで、かつての自分であればそれを情けないと嘲笑したのであろうが、今の青年は最早そんな事を恥じはしない。目的を果すまでは決して帰郷しまいと誓ったあの日の自分に、何処か申し訳ない様な気持ちを覚える事もあるが、今では分かる。あの時の自分は何も知らなかったのだ。分かっていなかったのだ。己が行いこそ正義と信じて疑わなかった、あまりにも幼く未熟だった自分。何と愚かだったのだろう。何と、無知であったのだろう。
 徐々に目的の島が近付いてくる。この舟には指揮官一名とその他戦友三名、合計五名が乗り込んでいる。その中で青年は最年少であったが、それ故、迷いも恐れも押し隠して毅然としていた。一度弱音を口にしてしまえば、もうそれだけで何かが崩れてしまいそうだったのだ。
 自由と平等を脅かし続ける民主主義の敵を打ち倒すのだと、そんな風に胸を張っていられた己が懐かしい。初めての戦いではこちらの陣営に単身飛び込む敵兵を目の当たりにし、その次には勝ち目の無い戦いに挑み全滅する敵艦隊と相対した。先の戦いではこちらが敵の補給路を断った為、食料を失った敵は直ぐに投降すると思われていたのだが実際そんな事は無く、敵軍の中で戦死者よりも餓死者の方が多かったと耳にした。
 衝撃的だった。
 部下に躊躇う事無く死ねと命じる上官がいる事も、それに対し妄信的に自ら進んで命を散らす兵がいる事も、青年にとっては衝撃だった。
 圧倒的な軍事力の差。青年は敵が直ぐ降伏するものだと思っていた。しかし現実は全くの正反対で、青年達が軍功を上げ快進すればする程、敵は躍起になって戦火を拡大させていった。
 救える命もあった筈だ。犠牲にならなくてもいい命が、在った筈なのだ。それなのに、何故だろう。かの国の兵は誰一人として敵に屈服する事を良しとしない。寧ろ、殺せと言わんばかりに猛進して来る。この無駄な戦いで味方の多くも負傷し、その内何名かは命を落とし、そして敵の殆ど全てが海底に沈んでいった。
 無益な争いだ。こんな事をしても何にもならない。けれど青年には畢竟、如何する事も出来ないのが現実で。
 がちゃり、と銃の音がした。
 青年が音のした方向に視線を遣ると、横に居た戦友が銃を握った手元を震わせている。がくがくと小刻みに揺れる銃が船体に当たって音を立てたらしかった。指揮官は短く、どうした、と問い、他の兵士達も訝って彼に近付く。問われた彼は言葉らしい言葉を発する事も出来ず、焦点の合わない瞳のままで何かを指差した。
 島が近くにまで近付いて来ている。恐らくは此処での地上戦が最後の大きな戦いになるだろうと、母国の政府はそう考えているのだと聞いたし、皆もそう言っている。こちらは民間人に危害を加える心算は毛頭無い。だから、先鋒が比較的上陸しやすい岸辺から島に上がり、一般の島民には投降すればこちらで保護するという内容のビラを撒く作戦になっている。青年達は先鋒の反対側、一先ず切り立った岸壁の方から敵の動きを窺いつつ、母艦からの次の命を待てと言われた。
 それが、何故。
 視界に飛び込んで来た光景に、青年達は皆言葉を失って瞠目する。実際目の前で起きている事が、現実だとは思えなかった。
 何故、何故。
 耳を覆いたくなる様な音がする。島に打ち寄せる波音だけではない、それ以上に鼓膜を震わせる水音。断崖絶壁の上から小気味良い程に次々と、何か蠢く影が落下して来ているのだ。青年の目はそれをはっきりと捉えていながら、それが何なのか、暫く彼には理解出来なかった。
 何故、こんな事が。
 何も言えず、唯々青年は手を伸ばす。それが無意味だと知っていても、彼はそうせずにはいられなかった。此の手では届かないと知っていても、訳も分からず声を張り上げ、銃を手放し舟から身を乗り出す。背後から上官が何かを言い、誰かに体を抑えられる。けれどそれも構わず、青年は海に向かって叫んでいた。
 嗚呼、如何して。
 如何して人が頭上から落ちて来るのだろう。如何して人が海に跳び込んで行くのだろう。如何して腰の曲がった老人が、赤子を抱えた母親が、あどけなさを残した子供が、まるでそれが正しい事かの様に崖から身を投げているのだろうか。
 青年は、頽れた。
 危害を加える心算はなかった。民間人の血でこの手を汚す気など更々なかった。しかしかの国は民を見限り、敵の手に落ちる位ならば自ら命を絶てと、自国の人々を虐殺しているのだ。
 どうする事も、出来ない。助けたい、救いたいと思いながらも、舟は未だ島から遠く、あまりにも短い青年の手では届かない。
 嗚咽が漏れる。
 噛み締めた唇の端から、くぐもった声が零れた。
 何故だ。  何故、国民に死ねという国があるのだろう。民を護るのが国ではないのか。民の為にあるのが国ではないのか。
 嗚呼。
 己は何の為に戦ってきたのか。国の為、国民の為ではなかったのか。それならば己は、その為に他国の民を、罪無き人を、こんなにも無残な形で――殺してしまったのか。
 嘔気がして、眩暈に襲われる。
 容赦なく照り付けてくる夏の日差しが、青年の肌を焼いていた。





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