貴方は私なんかに恋をするべきではなかったわ、と女はそんな言葉を風に乗せ、高欄に手を掛けて眼下の風景を眺めた。







The world is dirtier than you expect.










But it is cleaner than you dread





 懐かしい薫りがする。女の背中を見ながら男はふとそう思った。
 夕暮れ時の風を含んで女の纏った裳が膨らみ、心安らぐ芳しい香がふわりと男の鼻を擽る。恋しい、と心が叫び、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。そうだ、彼女は何時もこの香を焚き染めた衣に身を包んでいた、と男は思い出す。この移り香を懐かしいと思ってしまう程に、男は久しく女と顔を合わせてはいなかった。
「こんな言い方をしては、私が言い逃れをしているみたいで見苦しいわね」
 苦笑する様に息を漏らして女はそう言い、さらりと長い髪を揺らして男の方を振り返った。普段は一寸の隙もなく確りと纏め上げられている女の髪が、今は垂髪を束ねただけの状態で肩に掛かっている。恋しくて恋しくて堪らない。男は馨しい風を掴む様に指を動かした。
「私を好きだと言った、貴方のその言葉に甘えたのは私。貴方の手を取ってしまったのは、他でもない、私だわ」
 女の肩越しには華やかに栄える都が一面に見渡せる。小高い丘の上に建造されたこの堂から見る情景は、正に壮観としか言い様の無い、息を呑んで見入ってしまう様な眺望だ。
 左右に聳える緑の山々、都を潤す澄んだ川、そして、中央に粛然と構える碧瓦葺の宮。故郷を離れ、初めてこの光景を目にした時の思いは、決して忘れまいと胸に誓ったものだった。
「でも、やはり……貴方は私なんかに恋をするべきではなかった」
 そっと告げられた女の言葉に、男は我に返った様に肩をぴくりと動かした。深緋色が美しい女の双眸を見詰め、男は喉が痞えた様な感覚に支配される。女が発した言葉の真意が、どうしても彼には分らなかった。
「ねえ、私はどうしても思ってしまうのよ。貴方が恋をしたのが私でなければ良かった。もしも私でなかったのなら、もっと他の、素直で、優しくて、可愛らしい女君であったら、きっと貴方は幸せだったのに、って」
 困った様に眉尻を下げ、何処か不器用な笑みを浮かべて、女は静かに言葉を紡ぐ。耳に届く女の声は出逢った頃から変わらず清廉としていて、あの時と同じく、この女(ひと)は賢媛だと思わせる響きを帯びている。凛として立つ彼女の姿に、何時しか男は、恋をしていた。
「貴方と共に生きるには、私は少し臆病すぎた。そして、貴方の傍に居続けるには、私は少し――狡猾すぎた」
 言うと女は僅かに肩を竦め、目を伏せて口を噤む。言い淀む様なその表情は、何時も彼女が自己を見詰め、そして何より自己を厭悪する時に浮かべる表情だった。
「多分、私には大切なものがありすぎるのよ。どれもが大切で、どれも手放せない。もしもどれか一つを選んでしまったら、私は私でなくなってしまうわ。だから私は、貴方だけを選んで、貴方を何より大切に思う事が、どうしても出来ない」
 如何いう意味か、と、男は声を絞り出す。すると女は小さく揺らいだ笑みを零し、白い手を伸ばして男の頬に触れた。
「勘違いしないで。私は貴方を愛しているわ。愛しているからこそ、言っているの」
 女の指が男の輪郭を優しくなぞる。愛しむ様に、慈しむ様に、彼女は両の手で男の頬を包み込む。
「ごめんなさい。こんなに好きになるとは思っていなかったの。隠して、騙して、誤魔化し続けられると思っていたのよ。でもね、駄目だった。私は貴方を愛してしまったわ。だから、貴方を疵付ける事に耐えられなくなってしまった」
 言って女はくしゃりと表情を歪める。彼女が何を言いたいのか分からない。男が訝しむ様に眉根を寄せると、女は顔を隠す様に男の肩に額を寄せた。
「貴方は≪私≫に恋をしている。でも私は貴方の望む≪私≫にはなれないわ。そして貴方には、今の私を受け止めきれない。貴方は私を、愛せない」
 耳元から聞こえてきたくぐもった声に、そんな事はない、と男は短く否定する。しかし女はふるふると首を振り、掠れた声で、無理よ、と言った。
「……私達、このままじゃ、お互いに疵付けあうだけだわ」
 卑怯だ、と男は思う。何時もは強さを装って決して弱さを見せない彼女が、こういう時だけは小さな肩を震わせて己に縋る。常に何事からも一歩退いて、他に介入せず己に干渉させない彼女が、こんな時だけは油断を見せて己を頼る。
 卑怯だ。卑怯で、狡獪で、恨めしい。しかし、そんな彼女に恋をしてしまったのは、他の誰でもない、自分だった。
 雨が降って来た。ふと頬を伝う何かに気付き、男は朱色に染まった西の空を見上げた。





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