恋なんて、そんな陳腐なものは要らないのよ。
 そう言って彼女は艶やかに笑って見せた。







You say good-by








 目が眩む様だ、と男は思う。絢爛たる情景に、鼻孔を擽る香に、鼓膜を震わせる調べに、眩暈にも似たものを感じる。高欄の前に立つ女の姿は華麗としか言い様がなく、煌びやかな衣裳が燭に照らされ輝く。艶やかな長い黒髪は高い位置で結わえられ、零れそうな程多くの玉を埋め込まれた簪がきらりと光った。
「恋なんて、そんな陳腐なものは要らないのよ」
 女の紅い唇が美しい弧を描く。何処か遠くを見詰める様な彼女の双眸に、男は、天狼星の様だ、と胸臆で呻く。冬空に一際目映ゆい輝きを放つ、玲瓏たる青白い星。彼女が持つ美しさは、それに似ていた。
「……陳腐、ですか」
 男がそう言葉を零すと、女はやはり薄く笑んで、ええ、陳腐、と澄んだ声で言う。一切澱みの無いその響きに、男は喉が塞がる様な思いがした。
「恋なんていうのは、戯言だわ。それは驕倨。それは傲慢。そんなもの、私は要らない」
 つ、と、女は腕を伸ばす。白く細い指が男の鼻先に突き付けられ、男は息を呑んで女を見遣る。言葉を発せずにいる彼に、彼女はふっと目を細めた。
「貴方のそれは、恋。人に理想を押し付け求めるだけの、怠惰な恋だわ」
 射抜かれる様な、思いがした。ずきりと胸に痛みが奔り、心臓を握り潰されるかの様な感覚を抱く。嗚呼、この女性(ひと)はあまりに遠い、と、男は漠然と思った。
「……貴女、は」
 掠れた声が男の口端から零れた。続けて男は何か言おうとするが、どうにも言葉が喉奥に詰まって出て来ない。男が唇を震わせると、女は穏やかな表情で男の頬に触れる。そして滑らかな美しい指で男の輪郭をなぞった。
「私は愛しているの、あのひとを。これは愛。恋とは違うわ。愛は驕らない。愛は妬まない。礼を失せず、恨みを抱かず、凡てを忍び、凡てを信じ、凡てに耐える」
 女は男の耳元でそう囁く。それは、此の遊廓一の妓女と謳われた彼女から聞いた、男にとっては最後の言葉であった。





Copyright(C)G.Capriccio Marino All Right Reserved