Treasure


 思い出すのも、嫌な記憶がある。
 夢の中で、日々の生活で、友だちとの語らいで、時々戒めのように甦る記憶。それは思い出と呼ぶにはあまりに生々しい。時計の針、座席、斜陽の色、空気感、手触り、向き合った人間たちの表情──わたしはその全てを、酷く鮮明に憶えているのだ。あのとき吐き出された言葉も、一語一句違えずに思い出すことができる。
 それほど強く刻まれているあの初夏。普段は意図して蓋をしている記憶だった。だが時折、わたしが隙を見せた瞬間、それらは脳裏に現れる。
 光を蝕む闇のように。わたしを侵す猛毒。
 ──敵愾心と猜疑心だけが、あの頃のわたしを構成している全てだった。





君よ、嵐に乗れ






 状況が把握できない。は、ともすれば失いそうになる意識を辛うじて保ちながら、盛大な溜息を吐いた。
 桜が散り、新緑の木々が目の前で揺れている。首を擡げれば、目前に広がるのは眩しいほどの青い空。風は微熱を孕んで、髪を絡め取る。肌を撫でるのは、初夏独特の空気。──だが、それを心地良いと思う余裕は、今のきみにはなかった。
 どういうことだ。すでに何度も繰り返した問い掛けを、厭きもせず──というより、思考が回らないからそれしか言えない──もう一度自問する。
「なんで、どうして、何が楽しくて、わたしここにいるわけ?」
 辟易とした気持ちで見上げたのは、鉄筋コンクリートの校舎である。この世界で一番苦手としている場所──母校の、中学だった。
 見慣れた灰色。馴染んだ校名。左手には体育館、右手には教室のある棟、真正面には生徒玄関。それを通してさらに向こう側に見えるのは、かつて嫌と言うほど走り込んだ、やけに水捌けの悪いグラウンドだ。
 きみは生温い風に晒されながら、暫く茫然と立ち尽くしてその光景を見つめていた。どう考えたっておかしいだろうと思う。
 学校が存在していることは何らおかしくないが、自分がこの場にいるということは甚だ奇妙なことである。──いや、百歩譲って、中学校を訪問することは万が一にも有り得ることにしよう。曲がりなりにも母校である。弟も未だ在学中だし、顔見知りの先生方も少なからずいる。だが、どうして今、正門の前で仁王立ちしているのか。というか、どうやってここまで来たのだったか。全く記憶がない。
 おかしい。
 今日は久しぶりにバイトを休んで、心ゆくまで惰眠を貪る予定だったはずだ。であるはずなのに、気がついたら中学校の前に立っている自分。服は最近購入したものをきっちり着込んでいる。挙げ句、人に会うわけでもないのに化粧までして。全く意味がわからない。
 大体──バイトを休んでいるということは、今日は休日だろう。絶対休日だ。が、どう考えたって、目に映る校舎の中では授業をやっている。
 高校ならいざ知らず、中学校で──それも市立の中学で──休日に授業をしているわけがない。
 夢だろうかとも思うのだが、夢にしては気持ち悪いくらいにリアルだ。風の感触も、陽射しの温かさも、校舎から聞こえる生徒の声も。現実味を帯びすぎている。きみは頭を抱えて蹲りたい衝動を何とか押さえつけ、やはり溜息を吐いた。
 時間が経てば経つほど、自分が置かれている状況を理解する気が萎えていく。
 もう夢でも現実でもどっちでもいいと半ば投げ遣りな気持ちになりつつ。きみは胡乱な眼差しで、学舎まなびやを見上げた。
「……中学校、ねえ?」
 どうせ仰ぐなら高校の方がよかったな、と。内心で小さく呟く。
 ──中学に、いい思い出は、あまりない。
 楽しいこともあったし、幸せだったこともあった。だがそれらを全て塗り潰すくらいの、病んだ感情が今も巣喰っている。
「……っ」
 脳裏を過ぎる記憶に息を呑む。微かに喘ぎを憶えた呼吸を止めようと、口を押さえた。両手で顔を覆う。


 ──いつまでそうしているつもりなんだよ。


 暗闇の中。不意に聞こえてきた言葉に、きみは指の隙間からゆるゆると吐息を洩らした。肺の震えが妙によくわかった。
 俯いて、そっと顔から手を剥がす。翳る視界で、見下ろした掌は酷く小さなものに感じられた。七分袖のシャツから覗いている手首、そこに浮き上がっている青白い血管に視線を落とす。──少しだけ、凹凸のついた皮膚。薄く残っているいくつかの線。
 項垂れた首筋に太陽光線が当たって、うなじがちりちりと灼ける感覚がしている。それは心のざわめきに似た──
 不意に、大音量のチャイムが耳を衝いた。傾ぎだした思考がぶれる。横っ面を思い切り張り倒されたような感じに、きみははっとして顔を上げた。
 どうやら授業が終わったらしい。遠く響くようだった生徒たちの声が、明らかにそれとわかる大きさになって聞こえ始める。やはりリアルだなあと、現状に途惑っていたさっきよりもずっとどうでもよいふうで思った。
 生徒たちが疎らに校舎から出てくる。どうやら放課らしい。今は一体何時なんだろうか。下校してきたのはどれも制服を着た生徒たちで、サックスブルーの体操着は外には現れず、窓や玄関でちらついていた。
 ところで私服を着た大学生がこんなところにいるのはどうなのだろう。不審者に間違われることはないよな──と云いたいところだが、今のご時世、普通に見える人間が普通でなかったりするのだから、どんな勘違いが生じるかわかったものではない。誰かの目につく前に、通りすがりを装ってこの場を離れるべきだと思った。帰ろう、口の中でそう呟いて踵を返そうとする。──しかし。
 校門から二、三歩離れると、きみはまた同じ場所にいた。
「……は?」
 呆気にとられる。全く思考が追いつかない。
「あれ……わたし移動しなかったっけ?」
 小首を傾げて頭を掻きながら、もう一度身を翻した。視線は中学校から離れ、伸びていく舗道を捉える。そちらへ足を踏み出して──
 気がつけばやはり、目の前に聳えるのは灰色の要塞だった。
「……どういうこと」
 言葉もない。表情が強張った。いくら日和見主義なきみであっても、さすがに不気味だった。
 今の摩訶不思議さからして、これはリアルじゃないと確信する。夢だ。夢と認識できる、生々しい夢。けれど──中学校から離れられない、なんて、そんなのは悪夢にしても趣味が悪い。
 夢ならば早く目覚めたいと強く思ったが、そう簡単でもない。唇を噛み締めて、きみはざわめく校舎を睨む。
 途端──フラッシュバックする、感覚。


 あたしは世界に独りきり。
 周囲は敵だけ。絶対にこの心には触れさせない。
 ただひたすらに前を向くのは──可哀想な子に、成り下がりたくない、から。


 頑なに誓った想いが、胃の腑から込み上げる。気持ち悪い。
 は、と息を吐く。咽喉を掴んだ。ふるふると弱々しく振動する息の根を止めようと、少しだけ締めつける。
 初夏の風。青い空。影を落とす巨大な鉄のかたまり。下校していく生徒たちは、誰一人としてきみを振り向いたりしなかった。まるできみの存在に気づいていない。絶えない笑い声を上げて、平凡な日常を過ごしている。そう──あまりに、平凡な。
 過ぎ去っていく人間の中で、きみは立ち尽くした。ノイズにしか聞こえない数々の声。誰の瞳にも映らない自分。
 拳を握った。ふ、と目線を上げる。鋭い眼差しで学校を捉えた。
 そして地を蹴る。走り出したのは無意識だった。


 ──これが夢なら。誰にも気づかれないあの頃の夢だと云うのなら。
 きみには確信があった。記憶を辿って、母校の階段を駆け上がる。最初は一段ずつ、次には飛ばして、速度を増して階を上っていく。その途中、いくつもの見覚えのある顔とすれ違った。友人、後輩、教師。だが、誰にも見咎められないのは、やはり夢だからだろう。
 まっすぐ目指したのは最上階だった。屋上へと繋がる扉の前、その踊り場。
 目的の場所へたどり着く少し手前で、一度止まった。息が上がる。酸素を求めて喘ぐと、意識が少しだけ白く染まって。屋上への階段に満ちている静けさに反射する自分の呼吸を確かめながら、きみは再び段差に足を掛けた。
 きっといるはずだ、と。一段一段を踏みしめるように進みながら、きみは思う。あと一階分上りきれば、きっとそこにいる。
 知らずに咽喉を鳴らした。心臓が低く脈打つ。学校のどこよりも暗い空間に、一瞬、眩暈を感じた。
 冷たい手摺りに、縋るように触れる。指先に力を籠めた。
 半階分を上り切って、そうしてそっと息を吐き、きみはゆっくりと振り返った。上目遣いにして仰いだ先、屋上へ続く扉の前に人影を見つける。磨り硝子から射し込む仄かな光を拒絶するように蹲って膝を抱えて、そこに彼女はいた。
 小さく、小さく。誰からも、どんな感情からも、身を守るようにして。
 殻に閉じ籠もり、人を、世界を、拒絶して。
 そこにいる彼女を、きみは見つけた。──やっと。



◆◆◆




 あ、と声を上げて背を向けた二人の姿は、よく憶えている。
 嗤いながら逃げていく足音も。


『だって腹立つんだもん』
『一体何だって言うんだろうねーてめーの何が偉いんだっての』
『やだやだ。死ねばいいのに』
『はは、ほんと』


『頑張ったってむだなのにさ』


 逃げていった二人が隠れた場所の前を、何食わぬ顔で素通りしながら、抱いた感情は何だったろう。
 ──他愛ない日常は、不変の地獄だった。
 何をされるわけでもない、ただ存在を無視されるだけの毎日。輪の中からは常に外され、けれど大人には一見してそうとわからないように巧妙に隠されたその闇は、日を追うごとに心を蝕んでいった。
 きっかけが何だったのか、今でもよくわからない。だが恐らく、自己主張の激しい性格が災いしたのだろうということだけは、朧気に感じている。
 嗤い声は遠く。蔑視だけが背中に突き刺さる。時折耳に届く陰口を、届いていないと知らないわけではなかっただろうに、第三者を挟んで相対すれば取り繕われるいくつもの言葉。いつからか、胡散臭い笑顔だなと、人の表情をぼんやり認識する程度しかできなくなった。
 傷ついていなかったと云えば嘘になる。けれど、そのうち自分に刻まれている傷なのだと理解することを止めた。
 人は仮面を被って生きるイキモノだと言い聞かせれば、面白くなくとも笑うことができた。この顔もまた、仮面を被ればいい。ただそれだけのことだった。
 まるで道化だ。
 生きていないようだった。
 一年、また一年と経って、完全に感情が麻痺し始めたのは、三年生の初夏。青い空が、闇に覆われて斜陽に変化していく世界の美しさだけは、色彩の乏しいあの頃の記憶で、唯一鮮明に残っている。
 必要ないと告げられた日、泣くこともできずにその美しい空を仰いだのだ。
 ──それが最後の空の色。
 それ以来、光は遠いものだと言い聞かせて、眩しさから目を逸らすようになった。
 届かないのなら、焦がれたところで仕方がない。ならば闇を征けばいいのだ。暗闇に身を埋めて、いっそ誰にも気づかれず、静かに息絶えればいい。愛情も、友情も、この手に余るほど脆いものなら、最初から手に入れなければ、心は痛まずに済むだろう。そう思った。
 振り返って誰もいないのなら、ずっと前だけを向いていればいい。
 どうせ好きになってもらえないのなら、想いの全てを拒絶してしまえば苦しくない。
 トモダチだと思い込んでいるのは自分だけ。痛々しい勘違い、と上からの目線で嗤われる恐怖に怯えて、人を信じることを拒んだ。独りでも平気だと虚勢を張った。あたしは強い、と──厭きずに繰り返した。敵愾心と猜疑心だけが。世界で生きていくために、縋れる全てだったのだ。
 そうやって、何もかもを睨むことで日々をやり過ごしていた自分は、どれほど孤独だったのだろう。
 確かにそこにあったはずの、いくつかの小さな想いさえ掬おうとしなかった自分は、どれほど愚鈍だったのだろう。


 こんなふうに膝を抱えて。ずっと哭いていた自分さえ、知らないふりをして。



◆◆◆




 暫く、じっと見上げていた。顔を埋めて小さくなっている彼女を。
 そこにいるのは、あの頃のきみだった。目を背けてきた弱いきみだった。
 時々、人の中にいることに耐えられなくなると、こうして誰もいない場所を選んで逃げていた自分。薄闇の中は安心した。硝子を通して、背筋に触れる微かな陽光も好きだった。完全に闇に浸かることも本当は怖くて、けれど真正面から光を浴びることも難しくて。いつもここにいたのだった。
 視線は逸らさなかった。ただ黙って彼女を見つめる。
 足は震えていた。ともすれば今すぐここから立ち去りたい衝動もある。
 だけど。
 あの頃のホントウに触れることを畏れる心をどうにか押し留めて、一段、上った。両足を乗せて止まり、また一歩を踏み出す。片足を乗せ、両足を揃えて。そしてもう一歩。片足、両足、もう一歩。それを繰り返してゆっくりと彼女に近づいていく。片足、両足、もう一歩。数の多くない階段だったが、上にたどり着くまでには時間を要した。
 ゆっくり、ゆっくり。そんな緩慢さで、きみは中学卒業以来の時間を重ねてきた。
 脆く、崩れやすい感情を少しずつ、柔らかく抱いて。そうしてようやく出逢える。向き合える。自分に。
 ──たとえ傷を全て癒すことはできなくても。
「……泣いてるの」
 彼女が蹲る場所よりも二段低いところで立ち止まって、きみはぽつりと呟いた。問い掛けというよりは、ただの独白だった。
 きみの声に、びくり、彼女は肩を揺らした。そして蛇が鎌首を擡げるように、ゆらりと首を反らす。いくら二段下にいるといっても、立っているきみと座っている彼女では目線の位置が違うので、自然と彼女の眼差しは見上げるかたちになった。
 拒絶と嫌悪を浮かべた双眸は、闇を透かしてきみを睨む。涙の跡はない。
「……誰」
 低い声は明らかにきみの存在を拒んでいた。ちりちりと肌を刺す敵愾心。その視線を、傲慢だと嘲ることはできなかった。
「……哀しいの?」
 訊ねると、ほんの一瞬だけ黒眸が揺れる。だが、敵意すら瞳の奥に隠して、彼女はすぐに無関心を装おうとする。
 翳りのある表情に、ふ、と笑みが浮かんだ。口の端だけを上げる微笑に、けれど感情はない。
「あなた、臨教の先生ですか?」
 会ったことありませんよね、と当たり障りのない言葉にすり替えた彼女は、腰を上げて立ち上がった。磨り硝子から射し込むぼやけた光を背負い、薄い逆光の中で笑む彼女は、どこか凄味がある。──どちらかと言えば寡黙で、表情もあまり動かさず、生来の責任感の強さから言動が冷徹になりがちだったために、氷の女王、と呼ばれていた自分を思い出した。
 きみが質問に答えずにいると、彼女は不愉快そうに眉を顰めた。機嫌の悪そうな顔をすれば、他人が遠巻きになることを知っているからだ。そして興味が失せたように視線を逸らすと、無言できみの傍らを通り抜けようとする。
 待って、と。反射的にその腕を掴んだ。だが、すぐにぱしんと音がして、手を振り払われたのだと知る。
 瞠目して彼女を見返した。そして、ああ、と思う。──どうしてそんなに辛そうな目をするの。
 乱暴に手を振り払った彼女の方が、酷く傷ついた顔をしていた。
「……すいません、驚いて」
 一拍置いて表情を歪めた彼女は、俯いて項垂れる。長い前髪が顔を覆った。少しでも表情を隠そうとして伸ばしていた前髪。その名残は今でもあって、きみの前髪も輪郭を消してしまうくらい長い。
「あ、いや、えっと。別に気にしなくていいけど。いきなり腕掴んだわたしも悪かったし」
 振り払われた手を、もう片方の手で包みながら言う。赤くはないが、じんじんと痺れていた。夢なのに。考えると笑ってしまう。
 しかし反面で、変に納得している自分がいた。そうだ。手を振り払えば痛いのだ。振り払った方も、振り払われた方も。──あの頃は、そんなことすら気づかなくて。突き放した優しさは、一体どれくらいあったんだろう。手を振り払われた人たちは、一体どんな表情をしていたんだろう。
 そして自分は、どれほどの痛みを、哀しみを、知らないふりをしていたんだろう。
「……ねえ。そんなに前髪長いと、いろいろ見にくくない?」
 わたしが言うことじゃないかも知れないけど。きみは自らの髪を見せて、小さく笑った。
 不審そうに、彼女はきみを見返す。
「なに……何です、突然」
「世界が暗く見えるでしょ」
 他人から見えないように、そう願って伸ばしていた前髪は、反面で視界から光を奪っていたのだと。空を見上げられる今だからこそ思う。
「……あなたには、関係ないでしょう」
 干渉を拒む口調。どんな言葉を掛けても、決して開かれない心の扉。拒絶に、きみは微笑んだ。
 階段の一番上で、蹲っていた姿が目に灼きついている。独りきりで、膝を抱えて。──彼女があの頃のきみだと云うのなら、彼女はきっと、自分のことすら信じていないのだろう。だから泣かない。泣いてもどうしようもないことを知っている。
 あたしは強いと粋がって、本当は知っているのだ。その非力を。
 だからせめて、前を向いて。睨み据えて。可哀想な子と思われないように、必死で。
「放っておいて下さい」
 平気ですから。そう言って彼女は背を向けた。
 ──同情も、同調も、ほしくない。堪えてきた寂しさを、頭を撫でて頑張ったねと、言ってもらいたいわけじゃない。
「──ねえ」
 階段を下りていく彼女を振り向いて、きみは声を掛ける。夢の中で言葉を放っても、あの頃の自分には届かないとわかっていたが。
 衝動がする。打破しなければならないという。熱く迸る想いがある。


 ──いつまでそうしているつもりなんだよ。


「いつまでそうしているつもりなの?」
 知らずに口をついたのは、生きてきた中で一番思い出したくなかった言葉だった。
 耳を塞いで、わからないふりを続けた言葉。


 ──ばかじゃねえの。いい加減にしろよおまえ。逃げてりゃどうにかなるもんじゃねえだろ。


「莫迦じゃないの。そんなふうに悲観ぶって悲嘆ぶって、いい加減にしなよ。──逃げてればどうにかなるもんじゃないでしょ」
 痛かった。苦しかった。悔しかった。哀しかった。──土足で、心の中を踏み荒らされたと感じた。
 その言葉をきみに向かって吐き捨てたのは、ずっと黙って事態を見ていた男だった。シカトしていた仲間たちがきみに注いだ侮蔑でもなく、先生が無遠慮に与えたその場凌ぎの慰めでもなく、彼が放ったのはただの怒りだった。
 真摯に、強く身を刺したあの眼差しを、忘れたことは一度もない。


 ──そんなに嫌なら。


「そんなに嫌なら──部活、辞めればよかったじゃない」
 その通りだった。彼が突きつけた現実に、あのときは泣くことしかできなかったけれど。
 五人きりしかいない仲間だった。その輪の中から弾かれた自分は、あまりに惨めで、あまりに可哀想で、だからきみは戦うふりをして目を逸らした。孤独ではないと言い聞かせて、孤独である自分を嘆いていた。──辛いなら、苦しいなら、素直に逃げ出せばよかったのだ。学校にも通わなければよかった。それをすることの方がずっと勇気がいることで、それができなかった自分は、結局周囲の目に怯える弱者でしかなく、逃げていただけだった。
 悲劇のヒロインなんてくそ喰らえだと反吐を吐きながら、そうあることを選んだのは自分自身。
 縋ることも甘えることも止めて、独りきりだと思い込んで、身勝手に嘆いたのも自分自身。
「責めてほしいと願うのは、ねえ、非がない自分はあまりに惨めで無様だからでしょう?」
 あんたは何も悪くないもんね。そう言って頭を撫でた先生が、死ぬほど嫌いだった。──何も悪くないあたしは、じゃあ、どれだけ可哀想だって言うの?
 きみの言葉に、彼女は足を止めた。肩越しに投げられた視線は剣呑として、裏腹に悲哀をも孕んで、複雑に揺れている。
「……なに、あんた」
 唸るような声。きみは笑う。
「ふざけたことばっかやってんじゃねえよってハナシ?」
 一言添えるなら、あの頃のきみより、今のきみの方が格段に口は悪い。
 ──空を飛ぶことを望みながら、その手で足枷を嵌めていた自分。
 もう枷はない。空の青さを知っている。たとえ空を翔られなくても、気分なら爽快だ。
 五年前より、心はずっと自由だから。
「……何も、知らないくせに」
 それはあの頃の口癖。ぽつりと呟いた彼女に、はは、ときみは笑い声を上げた。
「知らないねえ。だって君、自分からは何も言わないじゃん」
 黙っているくせに、知ってほしいだなんておこがましい。変化を畏れて動き出さない自分のことを棚に上げて、なにほざいてんだこのガキは。
「ねえねえ、一発殴ってもいい?」
「は?」
「その横っ面張り倒せば、目が醒めるんじゃないかと思って」
 長い夢だ。けれどもうすぐ目醒めるだろう。そんな予感がしている。
「情けなくて不細工なその顔も、殴れば少しはマシになるんじゃない?」
 暗い表情を見下ろして、きみは言った。別に苛立ちがあるわけではない。腹が立つことはあっても、過去の自分がなければ、今の自分はないから。──強がって、独りで足掻いて、そんな格好悪いあの頃だって、いつかはきっと愛おしいと思える。
 過去は変わらない。だから、あの頃負った傷は時折フラッシュバックして、きっとこれからもきみを苛むだろう。
 その痛みすら、愛せるわたしになりたい。
「……ばかみたい」
 付き合っていられない、と。冷淡にきみを見遣った彼女は、再び階段を下り始める。
 他人の理解を拒み。愛情などいらないと嘯き。全てに背を向けてそうして彼女は生きていく。傷を抱えて。
 それでも彼女は人に出逢い、人と別れ、そしてまた出逢う。蹲っている彼女を叱咤してくれる人、立ち竦む彼女に手を差し出してくれる人、一緒に笑い合ってくれる人──それは、まるで、奇跡のように。続いていく軌跡がある。
 時間を掛けて、ようやくわかることもある。
「──希実きみ
 手摺りにもたれ掛かり、きみは口に手を添えて、二度とは届かない彼女に響くように言う。
 ──逃げてもいい。泣いてもいい。けれどどうか。どうか、叶うなら。
「ねえ、諦めんなよ」
 諦めないで。負けないで。生きること、願うこと、愛すること。──大丈夫、きっと、傷があるから優しくなれる。
 屋上から四階への階段を下りきって、三階への階段へ足を掛けるとき。彼女は、一瞬だけ、ちらりときみを見た。感情は読み取れなかったが。
 きみは微笑む。薄闇に刺す微かな光の中、ひらひらと手を振った。


「──未来で君を待ってるよ」













「海曲のララバイ」の芯様宅から頂いて参りました!
芯様のお書きになる文章はとても流暢で、音も綺麗で、その上重みがあって沁みて来るんです。本当に心の底から尊敬しています。それに好きな作家さんも一緒なんですよ、嬉しい事に。
だからもうずっとずっと前から私は芯様のファンです(ぇ
何時か私もこんな風に素敵な作品を書けるようになりたいなあと志しつつ、これからも隅っこの方からずっと応援しています!

最後になってしまいますが、芯様!
この度は「海曲のララバイ」一周年、及び20歳のお誕生日おめでとう御座いました!




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