すっと倚子(いし)に腰を下ろし、玖潭において方士の長老たる男――磐哉いわか士師はぐるりと視線を廻らせた。漆喰の塗られた白壁に囲まれた空間に、丹塗の泰然たる柱が良く映える。木材が格子状に組まれている天井は高く、見上げれば己が小智を思い知らされる様だ。
 此処には格別な気があるのだ。磐哉は常々そう思っている。彼はもう数十年に渡ってこの評議会に与しているが、此の場に身を置く度に徒ならぬ何かを感じずにはいられない。八百万(やおよろず)の神々に注視されている様な、そんな気分になる。
 男の周囲には彼が座している物と同様の倚子が放射状に並べられており、それらには同様に玖潭が誇る選ばれし方士――士師達が腰を掛けている。だが、一堂に会した面々の間には、様相の異なる倚子が一つだけあった。未だ主を持たぬそれには磐哉の物とは違い緻密な彫刻が施されており、虹色の輝きを放つ螺鈿の細工が美しい。此の玖潭において唯一人にのみ座る事が許された、均整のとれた作りのそれ。磐哉がふと視線を横に遣ると、殿堂の外から、しゃらん、と澄清たる鈴の()が聞こえた。その音に促され、士師達は一斉に立ち上がる。続いて、きい、と板戸が開く音がし、麹塵(きくじん)の衣を纏った男が姿を現した。
 この瞬間、磐哉は何時も歳を忘れる。わが身の老いた事を忘れ、背筋が伸びる様な思いがするのだ。板戸から評議会に足を踏み入れた男は、静かに堂内を進む。様々な色合いを持つ百余種の経糸が用いられた彼の帯には海賦の紋様が施されている。此の海賦の帯こそが、玖潭の方士を象徴するものであった。
 さらりと衣擦れの音をさせて、彼は己が倚子の前に進み出る。そして此の堂に集った者達をざっと見渡すと、小さく一つ頷いてから無駄のない動きで着座した。玖潭の方士たる証――海賦の帯を締めながらも方士ではなく、士師でもないのに此の評議会の場に参ずる御仁。この玖潭で唯一無二の元首、皇尊すめらみことその人である。
 皇尊の定型的であるが洗練された動きに合わせ、磐哉等も音を立てず静かにそれぞれの倚子に座す。士師達の坐具は皇尊のそれと装飾さえ異なるが、孤を描く様に並ぶ皆の視線は同じ高さにある。議場においてはそれぞれの階次を顕わにすることはない。それが皇尊と士師によって構成されるこの評議会と、民意を代表し立法を担う民会の相違点であった。
「さて、まずは椛峅からの客人について話をせねばならんか。尭勢(たかなり)士師、頼むぞ」
 嗄れた声で磐哉が徐ろにそう言うと、広い八角堂の中に満ちた気がぴんと張り詰めた。磐哉はちらりと右手の方、侍坐している壮齢の士師に視線を遣る。その、尭勢と呼ばれた涅色の髪を持つ士師は、一つ頷いてから皇尊に対して拱手し、さっと士師達に視線を戻した。
「昨晩、朔の夜、椛峅の紫蘭姫が楢斐に亡命なされた事は皆様ご存じでありましょう。此れは我等が斎王、珠洲(すず)様が予見なさっていた事。加悦からは若い方士三名を楢斐に向かわせました。彼等は既に紫蘭姫を保護しているものと思われます。しかし椛峅の現状は未だ明確にはなっておりません。士師一名が内情を探っておりますが、現在分かっていおることは、椛峅で騒擾があり、姫君が祖国より逃げねばならぬ事態になったという事のみ」
 玖潭の士師はそのおよそ半数が国内、或いは国外の各地へ散っている為、評議会の議場に集うのは十名足らずになることが殆どである。そして今回も例に漏れず、話す尭勢の視界に入る人影の数は少ない。
「失礼ながら尭勢士師、楢斐への方士の派遣、私は承諾した覚えがない。更には椛峅に士師を潜らせたなど、酔狂な。他国に介入しすぎるのは良くない。違うか」
 士師の内から声が上がった。尭勢は何ら動じる様子も見せず、廼時言葉を返す。
「此度の椛峅における何らかの動き、唯の政変では御座いません。寧ろ、磯城(しき)の島全土にいる、我等方士に関わる問題といった方が正しいでしょう。手を拱いている訳には参りません」
「はて、その問題とは如何なる」
「それは未だはっきりとは分かりません。騒擾が起きた折より椛峅の情報が入って来ないのです。恐らくは何者かが統制しているのでしょう。近い内に士師から報告があるかとは思いますが」
「成程、全容どころか概要さえ掴めぬ内に、士師やら方士やらと人員を割いたという事か」
「ですから、最低限の人数に抑えてあります。椛峅へは(まさき)士師に行って頂きましたが、これは本人の志願によるもの。何かあらば楢斐に駐在している来栖(くるす)将軍に助けを求める事もあるやもしれませんが、基本的には単独での任務遂行となります。この人員配分が玖潭にとって損害になるとは思えません」
 尭勢士師、と、今度は違う方向から声が飛んで来る。椛峅で起きた事が唯の謀叛や擾乱ではない事など、此の場に居る士師であれば皆分かっている事だ。しかし、何事かを決するにはあまりに手許の情報が少ない。故に皆、思いあぐねているのだ。
「楢斐へは一体誰が?」
「柾士師の弟子、紅継(くれき)梶呂(かじろ)葵和(きわ)の三名です。成人なさったばかりの紫蘭姫にお心を開いて頂く為、歳の近い、未だ壱拾九、壱拾八の三名を派遣しました」
「その様な若造で宜しいのか。姫君の事、椛峅にいるであろう首謀者は勿論、玖潭の人民にも知られてはならない。如何なる混乱も招かないように、姫を加悦(かや)の都にお連れしなければならないというのに、あまりに心許無い」
 いいえ、と、尭勢が反駁しようとした時だった。何処からともなく、大丈夫ですよ、と穏やかな声が響く。その声を発したのは無人の倚子。いや、正確に表現するならば、発された声が倚子から聞こえているのだ。日明(ひずき)士師、誰かが呟く。玖潭においては最も若い士師となる、彼の名を。
「御心配には及びませんよ。あの子達はとても優秀です。きっと与えられた命をしっかりと果たしてくれるでしょう。ね、尭勢師匠」
 ふふ、と小さな笑みまでも耳に届く。尭勢は苦々しげに眉根を寄せ、不肖の弟子が、と胸の内で毒吐く。こうして人好きのする笑みを浮かべながら唐突に口を挟んでくるところが、尭勢の弟子たる日明の悪い癖である。
「日明の言う通りです。彼等はこの任に必要な能力を充分に有していることは、此れ迄の実績を見れば明らかであるかと。……では、この件に関しまして、承認頂けますか」
 言って尭勢が議場にぐるりと視線を廻らせると、是、と堂内の彼方此方から肯定の声が上がる。反論する者はない。幾つかある空席の倚子からも、複数名による是認の声が聞こえた
 倚子より聞こえる明瞭な声。加悦を離れ各地に赴任している士師の多くは、こうして評議会に列するのだ。天壌(あめつち)を取り巻く五つの気。万物の根源となるその力――稜威いつを通して言葉を伝達する。その様な事が可能となるのは、八百万の神々、そして神域である杵築(きづき)、更には斎王の力あってこそ。各郡に置かれた神殿全てに斎王の影響力があり、どれも斎王の稜威によって加悦の都と繋がっている。唯の方士であれば稜威によって言葉を交わす事など出来ないのだが、ある一定の力を持つ士師ならば、斎王の力が及ぶ域内において意思の疎通が可能となるのだ。
「承認感謝します。紫蘭姫が加悦に到着なさいましたら、姫君から直接お話しを伺う事に致しましょう。それで宜しいか」
 ふむ、と磐哉が一つ頷き、皇尊は無言の内に応諾の意を示す。磐哉は角張って皺の寄った手を勾欄型の肘掛に乗せ、何れにせよ、と言ってゆっくりと言葉を紡いだ。
「玖潭の評議会は決して他国の政に介入はせんよ。其処を違えてはならん、決してな。拙等はその上で出来得る限りの事を果たすのみ。皆々、そう肝に銘じよ」
 評議会の内で尭勢にのみ届く声。葵和の事は分かっていらっしゃるのでしょう、宜しいのですか、と日明は問うた。尭勢は静かに息を吐き出し、ああ、と溜息にも似た声を漏らす。それだけで日明にとっては充分な返答になったのだろう。そうですか、と短く零すと、日明は口を閉ざした様だった。
 当然だ、分かっている、と尭勢は思う。未だ壱拾八の若い方士、葵和。彼女が内に抱えるもの。これは賭けなのだ、葵和の為には必要な。此処で潰れる様ならそれまで。玖潭の方士としては使えない。そうならば捨て置くのみ。
 だがしかし、葵和が何かを掴めば、事はそれで変わる。
 尭勢はちらりと磐哉に目を遣った。すると、磐哉は目を細めて小さく頷く。成程、評議会の長老はやはりお気付きか、という笑みを含んだ呟きは、磐哉の胸臆のみに留めた。





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