君が為と云うのが偽善で 己が為と謂うのが欺瞞なら 最早真実などは必要ないのだ 「――顔も知らない方の護衛はご遠慮願いたい」 そう言ったのは、玖潭の方士、 紅継に言われた斎王は澄んだ双眸で紅継を見据えている。その身に纏っているのは丹色の衣と生成の裙で、数刻前に葵和が献上したものである。相も変わらず漆黒の布で顔を覆った侍衛は、何も言わない主の代わりに強く言葉を放った。 「護衛など、頼んだ覚えはない。 「では我等は必要ないと?方士の手助け無く如何にして 「もう、紅継、そんな言い方しなくてもいいでしょ」 「なら葵和は道中何かあっても躊躇いなくこの御仁を護れるか?命を張ってでも?」 紅継のにべも無い口調に、葵和は鼻の上に皺を寄せて言い淀む。梶呂は眉尻を下げて困った様に笑うと、すみません、と言って斎王とその侍衛に軽く頭を下げた。 「紅継の態度が悪いので快く思えないのは分かるんですが」 態度が悪い、と言われた紅継は心外そうな顔をする。けれども、葵和や杲を含め、此処には紅継を擁護してくれそうな人がいない事は分かっているので、敢えて何か言う事はせず渋面を作るに留めた。 「僕等としては、任務を問題なく遂行する為に、少しでも貴女方の事を知っておきたいんです」 「だから、それは必要ないと」 楢斐の関門で目見えた時から眸以外を黒布で隠している従者は、苛立ちを含んだ声音で梶呂に言う。しかし、主たる斎王は静かな声で侍衛を制した。 「もういいでしょう、 言って斎王はふわりと微笑む。従者は主の命に、しかし、と反駁しかけるが、酷く柔らかな表情をしている皇女に対して何も返せなくなる。侍衛は諦めた様に溜息を零した。 ふと、杲は訝しげに眉根を寄せる。紫蘭、という名の響きには聞き覚えがある。それは確か、椛峅の姫君自身の名ではなかったか。 「……姉上が、そう仰っしゃるのなら」 従者がぽつりと零した言葉に、葵和は耳を疑った。椛峅の皇女は先の皇尊の一人娘。母君は体の弱い人で姫を産んでから数年で逝去し、皇尊であった父君も一昨年に崩御した。其の後は先帝の弟、姫にとっては叔父にあたる親王が皇尊として即位したが、葵和の記憶が正しければ、斎王には今、年の近い親族は従兄君しかいない。少なくとも、皇女を「姉」と呼ぶ者など――此の世の何処にも、いない筈なのだ。 「致し方……ないでしょう」 苦々しげにそう零すと、侍衛は己の口許に手を遣る。そして、表情をその裏に隠した角布に指を掛けた。 するり、と、顔を覆っていた其れが板張りの床に落ちる。初めて露わになった侍衛の容貌を直視し、杲は思わず息を呑んだ。 「なんと、これは」 呻く様にして杲がそう言うと、皇女の表情に若干の翳りが滲む。射干玉の黒髪、漆黒の双眸。未だあどけなさの残る、しかし凛とした面差し。 皇女の隣に並んだ従者は、一見しただけでは区別の付かない、皇女と瓜二つの容貌をした、一人の少女であった。 「皆様方でしたらご覧になってお分かりでしょう。この子は私に似ている唯の影武者ではありません。私にとって最も信の置ける近しい存在。そう――双子の、妹です」 椛峅の皇族に双生児がいるなどという話は聞いた事がない。梶呂は瞠目し、言葉を呑んで二人の貌を見比べる。そんな些か不躾な視線に気分を害することはなく、斎王は穏やかな口調で皆に言った。 「双子は凶兆です。故に、皇女たる私達は双子であってはならなかった。双子である私達は、存在してはならなかったのです」 「ですから亡き父は妹である私を公の目から隠し、けれども姉上の傍らで育てさせました。名も与えられず、存在すら許されなかった私には、姉上と共に在る事こそが全て」 「私達は産まれた時から二人で一人、一人で二人。当然、紫蘭の名も二人のものです」 俄かには信じ難い事実だ。けれど、方士である葵和や紅継、そして梶呂には分かる。思えば、皇女と此の近従が纏う気配は酷く似ている。同じ天運が、彼女達を取り巻いているかの様に。 「私は妹を紫蘭と呼びますが、皆様はその名を呼び難いでしょう。どうぞ、 何の淀みもない口調でそう言い切る皇女。此れ以上詮索するなと言外に匂わせている。そんな皇女の言葉に杲はこくりと肯く。わざわざ細かい事情をお伺いはしませんが、相分かった、と杲が言うと、それは良かった、と言って姫君は穏やかな吐息を漏らした。 「では、これで宜しいでしょうか。加悦まで、お連れ下さるのですよね?」 ふわりと柔らかい笑みを湛えて皇女が言う。透き通って清らかな声が室内に響く。見掛けによらず強気な姫君だ。紅継は胸臆でそう呟き、微かに口許を緩めた。 「勿論です」 言いながら紅継は片膝を付いて胸の前で両の手を組み合わせる。それに続いて葵和と梶呂も斎王を前に揖礼し、方士として頭を垂れた。 「お任せ下さい。この命に代えても、皇尊の許へお二人をお連れ致します」 葵和がそう確言し、梶呂もそれに一つ頷く。椛峅の皇女は妹に目を遣り、安堵した様に表情を綻ばせた。 来栖将軍なら玖潭の皇尊に取り次いでくれるだろうと、その人柄を頼って楢斐まで来た二人であったが、将軍にその様な事を依頼するまでもなかった。若き方士を派遣した玖潭の皇尊は、確かに何らかの情報を得ているのだろう。だが、全容は明らかになっていない筈だ。 大丈夫、と皇女は己に言い聞かせる。この子がいる限り大丈夫。此れ迄ずっと共に歩んで来た妹。何者にも代え難い、大切な、大切な。 何があろうときっと斎王を護ってみせます、と、そう言ってくれた妹の言葉を、姉は心から信じている。もう後ろは振り返らない。最早前を見て進むのみ、と、彼女はすっと視線を上げた。 来栖将軍麾下、第三連隊を束ねる 「それで、姫君は御出立なさったのか」 「はい。つい先程、方士三名と共に加悦へ向かわれました」 真久の問に答えたのは、任海隊第七班を束ねる軍曹、 「方士が不眠不休で馬を奔らせても都から此処までは一日。皇女の御身を慮りつつ加悦まで行くとなれば、二日か三日は掛かってしまうだろう。餉はご用意して差し上げたのか」 「来栖将軍の命で至急五人分用意させました。水と食糧に関しまして問題はないと思われます」 「そうか。ならば良かった」 楢斐に椛峅の姫が来たという事実は、皇尊に遣わされた方士三名と、来栖杲、任海真久、筌原稀代しか知らない。関門近くに配置されていた楢斐の兵卒は方士に記憶を消され、来訪者があった事すら覚えてはいないだろう。 何の為に椛峅の 「この件、評議会はあくまで民会に話を波及させない心算か」 士師を椛峅に、方士を楢斐に遣わしたのは、皇尊、延いては評議会の命に他ならない。椛峅の現状に関して評議会が何らかの事情を知っているのはまず間違いないだろうが、評議会はそれを明らかにせず、内密に椛峅の斎王を保護すると決めたのだろう。つまり、此れは、そう簡単に公に出来る事ではない、という事だ。事態はそれ程に何らかの危険性を孕んでいるのだろう。 ならば、真久に出来る事は一つだけ。此の楢斐にて評議会の意思を尊重するのみだ。何より、姫が国境を越えたという事を、他の誰にも知られてはならない。決して、誰にも、悟られてはならない。 「稀代、腹を括れよ」 椛峅の姫を受け入れた以上、最早玖潭も無関係ではいられない。何かが直ぐ其処まで迫っている様な、何とも言えないざらりとした感覚が胸の奥に残る。だが、玖潭に仇為す者は一歩たりとも関門を越えさせない。何があろうと、絶対に。 真剣な面持ちで告げた真久に、稀代は一つ頷く。楢斐の空はこの場には不釣り合いな程に澄んで青い。吹き抜ける風の音は、まるで誰かが泣いているようにも、或いは、祈りを捧げているようにも聞こえた。 |
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