太陽の香りがする。温かくて心地好い、優しくて穏やかな、陽の気配を肌で感じる。込み上げてくるのは安堵にも似た感情で、じわりじわりと体の中に熱が伝わっていく。
 嗚呼、懐かしい、と心がざわめく。手を伸ばしても届かないと知って猶、期待せずにはいられない。求めてはいけないのに、望んでしまう。この、どうしようもなさ。
 その、愛しくも哀しい温もりに抱かれ、少女はふと目を開いた。
「――っ」
 息を呑んで瞠目し、寝かされていた躯を反射的に起こす。頭で何かを考えるよりも早く、左手は懐中の刺刀さすがを掴み、右手はその柄に触れている。防御にも攻撃にも転じ得る体勢をとった後、咄嗟の挙止に遅れて思考が働き始めた。
 此処は何処なのだろう。どうにも昨晩の記憶が途中で途切れていて現状が把握出来ない。皇女(みこ)は、と、はっとして少女は辺りを見回す。何故、何時から、どういった経緯で、自分が此処に居るのかという疑問よりも先に、主君とも言うべき人の姿が脳裏に浮かんでいた。
「姫様も……お休みになって、いらっしゃいましたか」
 少女の隣であるじがすうすうと小さく寝息を立てているのに気が付き、少女は些か肩の力を抜いて息を漏らす。長旅で疲労を感じていたのであろう姫は、緊張の糸が緩んだ様に無防備な表情をしていた。
 目が、耳が、肌が、徐々に辺りの状況を察知する。怪しげなものは何もない、長閑な朝だ。何処かから軽やかな鳥の声までも聞こえてくる。少女は右手を刺刀から離して懐に仕舞い、主の横に腰を下ろした。
「香、か」
 少女がいる場所は几帳で仕切られていて、室内全体を見渡す事は出来ない。だが、少女の枕元で何らかの香が焚かれていた形跡がある。どうやら催眠効果のあるものを嗅がされていたらしい、と思惟を巡らし、少女は微かに眉を顰めた。
 並べられた二人分の畳と、少女の足元にある袍、姫に掛けられた袿を見れば、此れが決して悪い待遇ではない事が直ぐに分かる。肌触りが良く鮮やかな緋色をした此の衣は、それ相応の物である事が推察される。その上、気を遣っているのだろう、少女の容貌を隠している黒布は取られてはいない。刺刀も奪われてはいないだけではなく、何らかの細工が施された様子も一切ない。相手は此方に危害を加える気は更々無いのだ。
 だとするならば、何故この様な事を。少女がふと渋面になると、几帳の向こうで妻戸の開く音がした。それに続いて何者かの気配が近づいて来る。少女は再び懐の刀を掴んで立ち上がり、鋭い視線で几帳の先を見据えた。
「お目覚めになられましたか」
 少女の視界に映ったのは、海賦の帯を締めた玖潭の方士であった。亜麻色の長い髪を高い位置で結っている、確か昨晩皇女を関門で出迎えた面々の中に居た筈の者だ。玖潭の女傑と名高い来栖将軍には劣るが、女性としては背の高い方であろう彼女は、腕に二人分の着物を抱えてにっこりと笑みを浮かべた。
「お早う御座います。私は皇尊(すめらみこと)の命により貴女方をお迎えに上がりました、葵和きわと申します。昨晩は多少乱暴な方法を取ってしまってすみませんでした。椛峅から休まず楢斐までいらしたのだからお疲れかと思って、今後の為にも一晩お休み頂いたんです」
「……本人の了承もなく香を嗅がせて、ですか」
「そんなに怖い顔をなさらないで下さい。決してお体に差し障りのあるものではありませんから」
「呑気な事を、言わないで!」
 少女は思わず声を荒げた。葵和と名乗った方士には、此方に害を与える心算など毛頭ない。そんな事は少女にも分かる。けれど、どうしても、刀の鞘を握る左手に力を込めてしまう。感情が制御出来ないのだ。
 しまった、と思い、少女は葵和から目を逸らして僅かに俯いた。取り乱してしまった己が不甲斐なく、喉の奥から声を絞り出す様にして少女は言葉を繋いだ。
「一刻を争う状況なのです。早く皇女を安全な所にお連れしなければならない。この様な所で油を売っている訳には参りません」
「そう言わないで。こんな時だからこそ休息が必要なんですよ。昨晩の貴女方……いいえ、椛峅から一人で斎王いつきのみこの護衛を務めていらっしゃった貴女には、もう肉体的にも精神的にも限界が訪れている様に見えましたから。私達が何を言っても休んで頂ける様には見えなかったので、姫君に対して失礼かとは思いつつも、このような対応をさせてもらいました」
 葵和は肩を竦めて苦笑する様に言うと、几帳の脇から少女に向き合い、手に持っていた衣裳を少女に差し出す。衣に焚き染められた品の良い薫りが鼻を擽る。沈香と白檀が合わさった、仄かな酸味のある程良い甘さを感じた。
「こちらで新しい着物を用意しましたから、宜しかったらこちらに着替えて下さいね。今お召しになっている物、旅の途中に随分汚れてしまったでしょ?あ、湯浴みをしたければ遠慮なく仰って下さい。直ぐに用意しますから」
 勝手な事を、と少女は内心で毒吐く。声に出して言いはしなかったが、葵和にはそんな少女の苛立ちが分かってしまったのだろう、人好きのする明るい笑みを湛えた。
「焦っちゃ駄目ですよ。私達は必ず貴女方を加悦(かや)にお連れします。皇尊もきっと姫君のお話を聴いて下さる。折角良い主君をお持ちなのだから、(あるじ)の事も、御自身の事も、大切にしないと」
 言って葵和は少女の手を取り、絹の衣を押し付ける様にして渡した。そして少女が何か言う暇も無く、何か御用の際はお呼び下さいね、と言い残して几帳の向こうに姿を消す。きい、と小さく妻戸が閉まる音がして、少女は一つ溜息を零した。
「こんな、お節介」
 呟く様にしてそう言うと、背中の方から吐息の漏れる音がした。少女は主の方を振り返り、その脇に膝を折る。皇女の睫が微かに動いたのを見逃さず、少女はむっとした様に鼻の上に皺を寄せた。
「姫様、何時から起きてらっしゃったのですか」
 少女の言葉に姫の肩がぴくりと動く。それから姫は緩々と瞼を押し上げると、困った様に眉尻を下げて微笑んだ。
「ごめんなさいね。さっき目が覚めてしまったのだけれど、起き上がる雰囲気でもないかしら、と思って」
「さっき、と言うと」
「あの、葵和という方士がいらっしゃった時に」
「では私達の会話も聴いていらっしゃったのですか」
「ええ」
 先程の葵和の言葉を少女は脳内で反芻させる。良い主君、と彼女は言った。更には確か、主の事も、自身の事も、大切にしなければ、と。
「凡て、ご考慮の内だったのですね」
「あら、何の事かしら」
 くすりと笑んで言う主に少女は何か言おうとするが、些か逡巡してから言葉を呑み込む。だがそれではあまりに居心地が悪いので、誤魔化す様にしてふっと視線を逸らした。
「ねえ。あのお方、流石は玖潭の方士と言うべきかしら。私達より二つか三つ程歳上に見受けられましたけれど、とても聡くてお優しい方。あの方のお心遣いを無下にして八つ当たりしてはなりませんよ」
「分かって、います」
「ならば後で葵和様にはお詫びしなければ、ね」
「……我が主は酷いお方です」
 目を合わせずに少女が言うと、皇女はくすくすと耳に心地好い笑みを零した。本当に、酷い主君だ、と思う。こちらは姫の為にも旅路を急がなければと思っているのに、この様に穏やかに微笑む主。
 恐らく、主は此の侍衛が疲労しているのに気が付いていた。だからこそ、玖潭の方士が他国の斎王に香を嗅がせて眠らせる、などという無礼を働く事も分かっていながら、それを阻みはしなかったのだ。
 掛け替えのないたった一人の従者たる少女を、此処でしっかりと休養させる為に。
「だって貴女、私以上の頑固者なんですもの。こうでもしないと加悦に辿り着くまで止まりもせずに奔り続けてしまいそうで」
 主の言葉に反論出来ない自分が恨めしい。少女は諦めて力無く(かぶり)を振ると、湯浴みをなさいますか、と小さく問う。未だに機嫌を損ねている従者の様子に目を細め、姫は、そうですね、でももう暫くゆっくりしてから、と静かに応えた。





決して忘れることはない
此れが舞台の序章であって
そして、幕引きの合図であった






Back / Top / Next

Copyright(C)G.Capriccio Marino All Right Reserved