ぎい、と木材の軋む音がした。少女はふと息を呑み、鉄で補強された荘厳な門を見詰める。漸く此処にまで、という思いも、未だ此処までしか、という思いも、少女の中には両方あった。
 海に面し商業で栄える強国、玖潭。椛峅は玖潭に隣接する国ではあるが、しかし、両国の間には強い結び付きと言えるものは無い。椛峅は葦原において何れの国とも緊密な関係を築かず、敢えて孤立という道を選択して独自の地位を築いている。山々に囲まれた椛峅は領土の狭い国で、玖潭の様な民主制は敷かれていない。市民による共和制とは言っても、椛峅には未だに身分制が強く残っていて、中央は貴族、地方は豪族によって政が行われているのが現実だ。
 そして、その椛峅を支えているのは豊かな鉱物資源。椛峅で採掘される鉱物は質が良く、椛峅の貴族や豪商が鉱山から得るものは大きい。そしてその富故に、椛峅は他の強国と同盟を結ぶ事も無く、葦原において一定の力を有している。つまり、如何に小国と言えども、資源が有る限り椛峅は力を保っていられるのだ。しかし、それは同時に、資源が枯渇すると椛峅は衰亡するという事でもあった。
 ぎぎい、と関門が更に軋み、閉じられていた視界が徐々に開けてくる。嗚呼、と少女は祈る様に一度瞳を閉じると、今度は決意の篭った眸を楢斐の関門に向けた。





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 音を立てて楢斐の関が開くと同時に、柔らかな風が吹いて杲の髪を揺らした。澄んだ心地好い風なのに、何処か寂漠としたものを感じる。杲は関門の先に在る人影に目を遣り、本当に二人だけで来たのか、と思った。稀代から話を聞いてはいたが、まさか椛峅の皇女が護衛を一人しか伴わずに他国を訪れるとは。杲は視線を鋭くし、何か変事でもあったか、と思う。姫の護衛だと思われる人影が手綱を握っている其の騎馬は、成程、屈強な体躯をしているのだが、肝心の護衛たる人物の背丈は姫とそれ程変わらない。或いは此の者は椛峅の方士か、と考えを巡らせながら、杲は門外の二人に向かって拱手し礼を執った。
「ようこそお越し下さいました。こちらの都合で姫君をお待たせしてしまった御無礼をお詫び申し上げます」
 杲は言いながら深く頭を垂れ、同時に、関門の脇で三人の方士も低頭する。来客の二人は辺りで失神している兵卒を視界に入れたのか、何か得心した様な息を漏らした。
「いいえ、お詫びしなければならないのはこちらの方です」
 耳に届いたのは、胸に沁み入る様な澄んだ声だった。しんとした暗い静謐に広がり、密かに鼓膜を震わせる清廉とした響き。例えるならば、そう、月影の様だ、と杲は思う。夜闇に差し込む一筋の白い光の様に、冴えて美しく、清らかで、そして、何より切ない。思わず涙を一雫流してしまいそうな、そんな響きがある。
 一瞬ぶるりと心が震えた様な気がして、杲は自身に驚いた。此の少女のたった一言に、武人たる己がそれ程感じ入ってしまった事が、杲にとっては何より驚くべき事だった。
「この様な時間に突然楢斐を訪れたのですから、何が起ころうと貴女方を責める事は出来ません。だから、どうか頭を上げて下さい」
 その言葉に、杲は組んでいた腕を下ろして顔を上げ、今度ははっきりとその瞳で予期せぬ来訪者の姿を捉える。檜皮色の双眸に映ったのは、翡翠色の被衣を纏った華奢な少女と、漆黒の衣で全身を覆う侍衛であった。
 嗚呼、この少女が椛峅の斎王いつきのみこか、と、杲は自然にそう思う。杲は方士ではないのだから、当然、目前の少女から神々の力を感じる訳ではない。だが、そう思わせるだけの何かが、其の少女にはあった。
「貴女が来栖将軍ですね」
 少女が静かな声音で放った問いに、杲は一つ肯く。すると、今度は少女が杲に対して頭を垂れた。一国の姫がとった思わぬ行動に、杲は僅かに狼狽える。椛峅の斎王に頭を下げられるなど、杲は考えた事もなかった。
「面識が無いにも関わらず将軍の御名を出してしまいました事、お詫びさせて頂きます。申し訳御座いませんでした」
 夜のしんとした中に響く、雪解け水を連想させる様な声だ。鋼の様な強さを感じる訳ではないが、何処か芯の通った、歪みも澱みもない凜とした声。その姫のしなやかな動きとは対称的に、杲はきりりとした表情で一礼を返した。
「その様な。椛峅の姫様が我が名をご存知であったという事、何より幸福に思います」
「来栖将軍と言えば玖潭が誇る女傑。その御名を知らぬ者は私の周りにはおりません」
 言って椛峅の皇女たる少女は微笑む。杲は思わず笑みを零し、これは参った、と小さく漏らして首を竦めて見せた。
「私は祖国に尽くす一介の武人に過ぎません。あまり煽てなさいませんよう」
「あら、煽てるだなんて、そんな心算は」
 少女が澄んだ声でそう言った、その刹那、少女の隣に控えていた従者がざっと一歩踏み出し、少女を背後に庇う様な体勢をとった。闇夜で何者かが動く気配がしたのだ。杲もぴくりと眉を動かし、腰元の愛刀に手を宛う。そうした時、ふと、足元から小さく呻き声が聞こえてきた。それを認めた葵和は僅かに驚いた様な表情をしてみせる。声を上げたのは、先程葵和が一撃を与えた楢斐の兵卒であった。
「……申し訳ありません。目測を見誤ってしまったみたいで。流石は楢斐の衛兵ですね。常人であればこれ程短時間で回復はしないのですけれど」
「無駄話をしている時間はありません。彼等が目覚めるより早く、早急に姫を何処かへお連れしなければ」
 葵和に続けて紅継が言い、梶呂もそれに一つ頷く。杲が姫の方にちらりと目配せすると、彼女は真っ直ぐな視線を杲に向けた。その奥に吸い込まれそうになる様な感覚を抱く、透き通った濁りの無い双眸。此れが姫の斎王たる所以か、と杲が胸中で呟くと、少女は己が両手を胸の前で組み合わせ、楢斐の関門を前に腰を折った。
「どうか、お願いで御座います」
 少女の声音に、躊躇いは無い。覚悟の滲んだ、芯のある響きだ。杲達が見詰める中で、少女はすっと頭を上げ、静かに、けれども強く言葉を発した。
「――玖潭の皇尊すめらみことに、御目通りさせて頂きたいのです」





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 高欄に手を掛け、男は空の彼方を眺めていた。今晩は朔だ。月影は何処にもない。此の辺り、玖潭の都たる加悦かやの各所には衛士の灯す明かりが見えるが、その向こう、山を越えた先には闇が広がっている。
 男は闇空に浮かぶ無数の星々を仰ぎ、とうとう来たか、と小さく呟いた。小高い丘の上に建造された此の社祠からだと、加悦の中央に位置する壮麗な碧潭宮へきたんきゅう、都の左右に聳える山々、更には加悦の玄関とも言える入海が望める。幼い頃から何度と無く目にしてきた眺望だが、幾ら月日が経とうとも見飽きる事はない。
御上おかみ、何をしていらっしゃるの」
「ああ、伯母上」
 背後から呼びかけられ、男は振り返った。視線を遣った先に立っている女性は、物憂げな影を帯びた瞳で男を見詰めている。男は、何でもありませんよ、と返すと、続けて小さく笑みを零した。
「ただ、ふと思っただけです。来てしまったのか、と」
「椛峅の姫君達の事ですか」
「ええ。姫御自身からお話を伺う為に、楢斐まで方士を三人遣わしたのではありますが、事の次第は良く分からず何らかの兆しだけが目に映る。何とも……煩わしい」
 男は薄らと笑みを浮かべたまま溜息を吐き、そうでしょう、と伯母に言って再び星空を見上げる。天の秩序――天紀は天体の運行に表れるものだ。五運を読むのに秀でた皇族は、また、天運を読む力も卓越している。玖潭の皇族を束ねる皇尊たる男と、玖潭の方士を象徴する斎王たる伯母。彼等には、他の者には見えないものが見えてしまう。
「姫君達は何の為に、御上の許へ来るのでしょうね……」
「それは姫君にお会いして直接探るしかないでしょう。何れにせよ、椛峅の姫が玖潭に害を為すとは考えられない」
「それは、何故」
「簡単な話ですよ、伯母上。咎徴を貴女が指摘なさらなかった。玖潭の者にとってはそれだけで確たる依拠になる。何せ貴女は芦原で右に出る者はいない、稀代の斎王なのですから」
 からりと笑った男に伯母は視線を落とす。彼の眸と彼女の眸とでは、同じ世界を見ていてもその捉え方があまりに違うのだ。
 夜は冷える。す、と一度瞼を下ろしてから甥を再び見遣ると、彼女は静かに唇を開く。早く御所にお戻りなさい、と彼女が夜風に言葉を乗せると、男は矢張り小さく笑んで見せた。





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