杲は楢斐いびの関門を眼前に吼号した。朔の夜のひんやりとした中に、揺ぎ無い真っ直ぐな声が響き渡る。成程、楢斐の空気は澄んで美しい、と胸中で独白し、杲は周囲で狼狽している兵達に一瞥を投げ掛けた。
 戸惑いの色を濃くして門の左右を固めている者達は、恐らく楢斐軍の中でも下位の者達であろう。かつてない事態に直面して如何にすべきか判断しかねている姿は、とてもではないが楢斐で長年鍛錬を受けた剛健な兵には見えない。素直に杲の言葉に従って門を開けるか、或いは楢斐軍の規律を遵守し将軍に背くか、彼等は判断に窮して周囲の様子を伺っているのだ。杲はさらりと髪を揺らして関門に一歩近付くと、実に淡々とした声で言い放つ。
「どうした。何故呆けている。体調が優れないのか?それなら遠慮なく言えば良い。私はこれでも良心的だから、望むなら今直ぐにでも暇を出してやるよう、楢斐軍の上に掛け合ってやるぞ」
 杲は小さく笑ってみせるが、その目は少しも笑っていない。兵達は杲の発する雰囲気に気圧されたのだろう、表情を凍らせて暫くの間立ち竦むと、ふと我に返った様に慌てて開門の準備に取り掛かる。若干脅しが過ぎたかな、と杲は独り胸中で呟き、まあ良い、と己の数倍の高さがある関門を見上げた。
 杲は一介の武人に過ぎず、方士の力は一切ない。よって、先刻此方に来訪したのが本当に椛峅かわくらの斎王なのかどうかは分からない。だが、杲はこの門を開けると決めた。それは杲が楢斐の者ではないからだ。玖潭の皇尊すめらみことに命を受けた者として、杲は此処に居るのだ。楢斐の矜持など杲にとってはどうでも良い。何より守るべきは皇尊の意思であり、何より、この様な事態に直面した時果たして皇尊が何と言うか、杲には充分過ぎる程分かっていた。
「――来栖くるす将軍、何をしておられるのか!」
 ふと、背中の方から男の怒号が聞こえた。杲はくるりと振り返り、己の名を呼んだ相手を認める。杲が見据えた男の顔には激情がくっきりと浮かんでいて、弓を携えたまま杲の方に駆けてくる男の容姿は、如何にも楢斐の武人、といった風な体裁だった。
「何を、というのは如何いう事だろうか」
「何故開門をお命じになったのか、と伺っているのです。話をはぐらかさないで頂きたい」
「はぐらかしている心算はない。私は唯、当然の事をしているだけだ。わざわざ説明をする必要はないだろう?」
「当然、と仰いますか。身元の知れぬ者を招き入れるのが、関門を任された者としての当然の行いか」
「口を慎め、無礼だぞ。あちらで私を呼んでいるのは椛峅の皇女みこなのだろう。開門は当然の判断だと思うが」
「世迷言を!」
 さらりと言ってのけた杲に対して、男は更に声を荒げる。男の言動は楢斐の武人として至って自然な反応だ。寧ろ、楢斐の関門を預かる者はこうでなければならない、と杲は思う。客観的に判断するならば此方の分が悪いのは確かだが、杲は此処で折れる気は毛頭無かった。
「世迷言、というが、貴君は私が将軍である事をお忘れか。私は皇尊の命に従い、皇尊に叙せられて此処に来た。それ以上謗り言を口にするならば、貴君は皇尊への敬意をも持ち合わせていないと見做すが、それでも良いだろうか」
「我を脅すお心算か」
「脅しではない。唯、此処は私が引き受ける、貴君は退いているが宜しかろう、と言いたいだけだ。私とて玖潭に仇なす者を国に入れようとは思わない。何か起これば必ず私が対処する」
 杲の言葉に男は渋面を作る。楢斐の武人からすれば、中央からやって来た女の将軍など一番信用ならない相手なのだから、これも仕方のない事だろうと杲は冷静に思った。それから、ふう、と軽く息を吐き、さてどうするか、と思考を巡らす。そして、面倒事にはしたくないのだが、と杲が僅かに視線を足元に向けると、瞬間、頭上の櫓で不穏な音がした。
 杲も男も咄嗟に櫓を見上げ、何事かと目を凝らす。事と場合によっては警鐘を鳴らさなければならない。杲がすっと刀の柄に手を伸ばすと、突如目前に人影が現れた。
「――失敬」
 人影は短くそれだけ告げると、目にも留まらぬ速さで男の首元に手刀を落とす。どさり、と男が倒れる音を聞きながら、影は恐らく櫓から飛び降りて来たのだろう、と一拍遅れて杲は漸く判断した。
「何者だ」
 杲は視線を鋭くして問うた。この身のこなし方は常人のそれではない。他国からの侵入者か、と眉根を寄せて杲が姿勢を低くすると、更に二人分の人影が櫓から軽やかに飛び降りて来る。杲は神経を尖らせて己の背後にある気配を辿った。新たに現れた二人分の影は、周辺の兵達に素早く手刀を落としていく。眼前にも影が立ちはだかっている為、杲は迂闊に動く事は出来ない。そして杲だけが意識を保った状態で取り残されると、影は三人揃って杲の方に向き直り、両手を組み合わせると礼を執った。
「――貴女が来栖将軍ですね」
 耳に届いたのは若い女の声だった。これは一体如何なる事か。杲は訝しみながらも小さく首肯する。すると、杲の背後にある幾つかの松明に照らされて、暗闇に紛れていた相手の顔がやっと明らかになった。ああ、と杲は得心して愛刀の柄から手を離す。その顔には多少だが見覚えがあったし、何より、よくよく考えてみれば、先程の様な動きをするのは彼等以外に考えられない。独特な色合いを持つ海賦の帯を締めた、玖潭の方士以外には。
「到着が遅れました事、まずはお詫び致します。皇尊の密旨により使わされました、葵和きわと申します。そしてこちらが……」
「同じく、紅継くれき
「同じく、梶呂かじろ
 そうか、皇尊が、と杲は呟いた。ご存知であったのか、と吐息と共に言葉を漏らすと、葵和と名乗った女は困った様に眉尻を下げて笑いながら頷く。それならそうと言って下さればいいものを、と思わず杲が小さくぼやくと、あの方はそういうお方ですから、と、葵和の隣に立つ穏やかそうな顔をした青年――確か梶呂と云ったか――が返した。
「正直なところ、僕達も椛峅の姫君が来訪なさっているという事しか知らないのです。人目を憚りこうしてお迎えに上がった訳ですが、何の詳細も聞かされてはいなくて」
「来栖将軍以外の者――特に楢斐の者には姫の情報が漏れぬ様に、と仰せつかったので、多少手荒な方法を取らせて頂きましたが」
「まあ、確かに方士としては手荒だったな。私はうっかり抜刀してしまうところだった」
「ふふっ、それは怖い」
 杲が冗談交じりにそう言うと、葵和はくすりと笑みを溢す。こうして見ると葵和の表情には未だ少女とも言える様な片鱗がある。女と云うよりは娘と云った方が良かったか、と杲は思った。
「ですが、ご心配には及びません。今は気を失っていますが、刺激を与えて軽い記憶障害を起こさせただけです。半刻もすれば目覚め、何事もなかったかの様に宿衛の任に戻れるでしょう。唯、今晩の事件については何も覚えていないでしょうが」
「驚いたな。方士というのは人の記憶の改竄するのも容易いと見える」
「容易くはありませんよ。記憶を全て消してしまうなら幾らでも方法はありますが、特定の記憶だけを掻き消すのには中々力加減が難しい。更に言うならば、有る物を無かった事にするならまだしも、無い物を有った事にするのは容易ではない」
 葵和に向かって杲が感心した様な表情をすると、先程まで言葉を発していなかった精悍な顔付きの方士――紅継が静かな口調で言った。そうなのか、杲が尋ねると、ええ、と言いながら葵和は紅継の足元に倒れている男に近寄る。何をするのか、と杲が葵和の方を見遣ると、葵和は男の首の付け根辺りを指先で突いた。
「起きて下さい」
 葵和がそう言うと、先程まで気を失っていた男がむくりと起き上がる。予想だにしていなかった出来事に杲が瞠目すると、今度は梶呂が男の目の前に手を翳して静かに言った。
「今直ぐ自分の持ち場に戻って下さい。此処で起きた事は全て忘れて。良いですね?」
 こくり、と男が頷く。そして紅継が道を開けると、男は何事もなかったかの様に歩き出した。夜闇に男の背中が小さくなっていく。杲が苦笑交じりに、どうにも方士を敵に回す訳にはいかないらしい、と呟くと、梶呂がくすりと笑いながら、奇遇ですね、と応えた。
「僕も丁度思っていた所ですよ。来栖将軍を敵に回す訳にはいかないな、って」
「……末恐ろしい方士だな、君達は」
 杲はくつくつと笑い、つられた様に梶呂も笑みを零す。そんな様子に紅継は肩を竦め、わざとらしく溜息を吐いてから関門の方に歩み寄った。
「どうでも良いからさっさと開門するぞ。これ以上お姫様を待たせる訳にはいかない」
 紅継の言葉に促され、そんな言い方しなくても良いじゃない、と不服そうにしながら、葵和も関門の方へと向かう。そんな二人の様子に苦笑を漏らしながら、梶呂は小さく杲に一礼してから二人に続いた。
 目前に聳え立つ、堅固な造りの重い関門。これを開いた先に果たして何が待っているのか。杲は櫨色の長い髪を風に揺らしながら、すっと関門に向き直った。





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