月の無い夜空に星々が美しく煌いている。天高く輝く青白い星、地平線近くに見える赤い星。此れは東からの来訪者を告げる星空だ。天が重大な危機を報せている、と、星空を見て焦燥感を抱きながら、驚くべき速度で馬を走らせる影が三つ在った。
「ああもうっ、山道で思ったより時間を無駄にしちゃったじゃない!」
「とやかく言ってないで兎に角急ぐぞ、葵和きわ梶呂かじろ!」
「そんな事紅継くれきに言われなくても分かってるわよ!」
「ほらほら二人とも、この速度でそんなに喋ってたら舌噛むよ?」
「私はそんな事しないわよ!紅継じゃあるまいし」
「どういう意味だそれは」
「……仲良いなあ、本当に」
 苦笑まじりの声は馬蹄が地を蹴る音に掻き消される。それでも常人より身体能力の高い彼等には聞こえてしまったのだろう、物言いたげな二人分のむっとした視線が揃って向けられる。横に並んでいた青年は気まずくなって馬を急かし、更に速度を上げて二人の前に出た。
 楢斐の関門までは後少しだ。この調子で行けば半刻もせずに着くだろう。辿り着いた先に何が在るのかは分からない。分からないが、しかし、そんな事は彼等にとって取るに足らない事だ。何より彼等には曲げられない信念と、捨てられない使命があるのだから。
 見上げた空は果てし無く遠く、そして高い。頬を撫ぜて行った夜風は、東の方角へと消えて行った。




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 男の意志は堅かった。身許が明らかでない者は、何人たりとも此処を通す訳にはいかない。其れは男の職務でもあり、意地でもあり、栄誉であった。
 玖潭の防衛において重要な役割を果たしている楢斐いびの関門。男の一族は代々楢斐の武人であったし、此の地に生まれた以上、男が進むべき道は既に決められている様なものだった。何より男にとっては、楢斐の軍団に身を置き、楢斐の為に朽ち果てる事こそが誉れ。武勇を知らしめる為に中央へ行く等というのは、楢斐の人間であれば決して望んではならない事だ。否、そんな事は考えるだけでも悍ましい。此の楢斐を護る事こそ玖潭を護るという事。歴史に名を残せないとしても、楢斐に生き、楢斐に戦い、楢斐に骨を埋める事が、男にとっての至福なのだ。
 此の玖潭くたみという国は、東西の大陸に挟まれた海洋に浮かぶ島――大概は磯城しき島と呼ばれる――の南西部に位置する沿岸の国だ。此の磯城島と、其の周囲に点在する小さな島々には、全て合わせると四十余りの国があるのだが、総称として葦原中津国あしはらのなかつくに、或いは豊葦原中津国とよあしはらのなかつくになどと呼ばれている。中津国とは詰まり、神々の住まう高天原たかまがはらと死者の地である黄泉よみの間にある国、という意味であり、四十余国は何れも同様に八百万の神々を崇め、同様の言語と文字を用い、同様の暦に基づいて月日を測る。故に葦原に生きる人々は互いを同朋と呼び親しみ、何れかの国が何者かによって危害を加えられた場合、四十余国は同朋の為に立ち上がるのだ。此れは義務ではないし、使命でもない。唯、天地開闢以来至って当然な事として、同朋は互いを補い合ってきたのだと、各国に保管された史書には書き記されている。
 しかし、同朋は身内であるといっても、常に友好的な関係が築かれている訳ではない。寧ろ同朋としての意識が強いからこそ、中津国の内での覇権を争って諍いが勃発する。其れは言うなれば家督を巡って兄弟が争うのと同じ事だ。各々がある一定の権利を持っていると自覚するからこそ、葦原の国々は戦いを繰り返す。それぞれが己の強みを生かして富国に勤め、己の弱みをも相殺する程の国力を得ようとする。資源に乏しい国は軍事力を強める事に特化し、土壌は肥えているが軍備の少ない国は、前者と同盟を組んで協力関係を築く。その様な現象が葦原の各所で起こり、此の島には政治的に複雑な構造が形成されている。故に、葦原から争いが無くなる事は殆ど有り得ない。殆ど有り得ないのだが、戦いの為に磯城島が荒廃する事も殆ど有り得ない。寧ろ、互いに切磋琢磨し競い合い、四十余国はより強くなる。何故なら、葦原には法とは違う力で維持される秩序が在るからだ。
椛峅かわくらの姫だなどと、酔狂な嘘を」
 男は関門の櫓から夜の闇を見下ろしながら、苦々しげに眉根を寄せて小さく呟く。隣国の皇族だと言えば楢斐の軍も恐れ戦くと思ったのだろうか。生憎と此処にはそんな腑抜けは居ない。不届き者を楢斐に入れてなるものか、と男は弓を手に取った。
 磯城島の中央部、一般的に杵築きづきと呼ばれる所には、何れの国にも属さない聖域がある。天に向かってすらりと背を伸ばす常緑樹に囲まれた、常人は近寄る事すら出来ない神域。其処は高天原と中津国を繋ぐ地であるとされ、何者にも干渉されず潔斎をして神に仕える御巫みこうのこが治めている。そして神々から下された宣託は、御巫を通して中津国の全域に伝えられる。その折に斎院と四十余国を仲介するのが各国の斎王いつきのみこ。木、火、土、金、水の気の運行、即ち稜威いつを読む力が強い、皇族に属する人間がそれに当たる。
 稜威にある程度慣れ親しんでいる者は葦原全土に数多くいる。例えば、漁業を営む者の中は水行を読む者が少なくないし、農耕に携わる者には自覚がなくとも少なからず土行が読める。日常的に触れている、自らを取り巻く気には皆敏感なのだ。しかし、五つの気全てを読める者となるとそう多くはない。稜威を読む者は一般的に人士と呼ばれるが、人士の中でもその力を駆使出来る者は稀であり、己の力と対峙し、勉学を積んだ者でなければ、天の摂理に呑まれて己を失ってしまう。その為、国の社で力を認められた人士は方士と呼ばれ、人々の信頼と羨望を集め、また、様々な使命を負うと共に特権を与えられる。
「ここに人士は居らん。姫と名乗り神器を持ち出しても、その真偽を暴く事の出気る者が居ない以上、門を開ける訳にはいかない」
 五運を読む者でなければ神器の真贋は分からない。男は矢を番えて弓を引き、何時までも立ち去ろうとしない来訪者に威嚇を試みた。しかし今日は朔だ。辺りは深い闇に包まれ、松明だけではあまりに頼りない。手許が狂えば威嚇どころか本当に射てしまう、と男は顔を顰めた。
 葦原において国の元首は皇尊すめらみこととされる。皇尊は皇族を束ね、軍事と祭事を取り仕切るのが古くからの慣わしである。そして国中の方士を統べ、御巫の言葉を皇尊に伝えるのが斎王の使命。更に言うならば、現在椛峅で斎王の役割を果たしているのは、椛峅皇尊の姪にあたる姫君である。
「……如何する」
 もし本当に彼の者が椛峅の姫なのだとしたら、と、そんな戸惑いが男の胸中に浮かぶ。いや、そんな訳があるまい、と直ぐにその思考を打ち消すが、一抹の不安は自然と男に弓を引く力を緩めさせた。
 玖潭の国を動かしているのは民主制だ。人々によって選出された民会によって立法が行われ、行政は民会で議決された十名の執政官が担う。その執政官を監視し斎王を助けるのが、士師――特別才能や功績を認められた方士――によって構成される評議会であり、罪を犯した者は民衆裁判所で陪審員によって裁かれる。この罪人の内には公務を正しく全うしなかった者も含まれ、仮に手違いであったとしても、万が一椛峅の斎宮王に怪我を負わせたとなれば、男は訴追を免れ得ないだろう。
「だが」
 まさか椛峅の姫君が何の報せも無く突然訪れる訳がない。そうだ、楢斐の軍団としての誇りは如何した、と男は自分を叱咤して視線を鋭くする。わざわざ椛峅の姫君自らが玖潭に遣って来る等というのは、余程の事が無い限り有り得ない話だ。
 そう。余程の事が無い限りは。
「躊躇うな。放て」
 男は自分に言い聞かせる様にして、暗闇の中にぼんやりと浮かぶ人影の、丁度足元の辺りを目掛けて矢を放とうとする。力強く弦を引き、身の丈程の梓弓を撓らせたその時、男の背後からざわめきが聞こえた。
 何事か、と男は動きを止める。すると、今度は力強い女の声が辺りに大きく響き渡った。
「――我が名は来栖杲!将軍が命じる、開門せよ!」





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