どんどんどん、と三回扉を叩く音がして、瞬時に女は枕元の刀を掴み床から起き上がった。その女の動きに合わせて櫨色の長い髪が宙を舞う。さらりと揺れる豊かな髪は、就寝中だった為完全に解かれていた。
 今は未だ夜中だ。海を隔てた西の大陸風にこしらえられた綺窓の向こうには、紺碧の空に煌めく美しい星々が見える。しかし数々の軍務をこなしてきた女にとって、こうして即座に脳も体も覚醒させるのは造作も無い事だった。
 女は名をひので、姓を来栖くるすという。女でありながらも広く実力を認められた生粋の武人である。人の気配が近付いて来ているのは先程から気付いていたのだが、其処にあまり不穏な雰囲気は無かったので気を張ってはいなかった。これが要人警護の任務であったなら何者かの気配がしただけで飛び起きるのだが、何分今はこれといった警護対象がいない。杲は愛刀の柄に手を掛けて自室の扉に近寄った。
 此処は海辺の国である玖潭くたみと山谷に囲まれた国である椛峅かわくらとの国境付近、楢斐いび郡にある堅牢な関塞である。楢斐の城砦は玖潭における重要な関門であり、半ば神話地味た史書の記述を信じるならば、玖潭において共和政が発達するよりも遥か昔から、長らく地方の政庁と軍営との二つの役割を果たし続けている。故に楢斐に生まれ育った人々は己が出自に誇りを持っており、楢斐の人間同士の結び付きはとても強く、反面余所から来た新参者をあまり好まない。特に中央から派遣された軍人等には比類無く手厳しい。そんな訳で、杲もその例に漏れず、此の土地では微塵も歓迎されていなかった。
「――来栖将軍、おられますか」
 扉の向こうからまだ青年とも言える様な若い男の声がした。辺りに響かない様に気を遣ってか、その声は低く潜められている。杲が刀を手に「ああ」と短く返答すると、外の回廊にいるのであろう男は「申し上げたき儀が」と小さな声で、しかしそれでいてはっきりと言った。それを聞いた杲は、はて、と首を傾げる。将軍たる杲の自室を直接訪れる事が出来るのは、本来なら彼女の直属の部下達数名だけである。しかし扉の向こうの此の気配は杲の良く知るものではない。男の声には何処か逼迫した様な響きがあるが、其処に敵意は感じられなかった為、杲は愛刀を片手に握った儘、自室の扉を静かに開けた。
「何があった」
 戸を開けた先に居たのは、濃紺の脛巾はばきを身に付けた男だった。此の色の脛巾を所持しているという事は詰まり、男が杲の部下の隊に配属されているという事だ。否、或いは杲の配下を騙って侵入した刺客かもしれない。けれども、片膝を付いて頭を垂れている男から不審な気配は感じない。一方、その愚忠にも思える様な実直さは充分に伝わって来る。こんな時間に恐れもせず将軍の自室にまで来た此の男が何を口にするのか、杲は若干の興味を抱きながら男の頭を見下ろした。
「畏れながら、誰が聞いているとも分からぬ所ではお話致しかねます」
 男の言葉に杲は、ふ、と笑みを浮かべて自室の扉を開け放つと、頭の上で手を組み拝している男に向かって立つ様に促した。
「入れ。話を聞こう」
 杲は踵を返して自室の中央にまで進み、手にしていた愛刀を置いて床に胡坐する。言われた男は顔を伏せた儘立ち上がり、室の中に入って扉を静かに閉めると杲の前で揖礼した。
任海とうみ第三連隊第七班軍曹、筌原やなはら稀代きしろ、この度は将軍に拝謁を許され……」
「堅苦しい挨拶は良い。本題に入れ」
「はっ」
 杲が軽く腕を上げて言葉を遮ると、男――稀代は深く頭を下げて杲の前に腰を下ろす。そうか、任海隊の軍曹だったか、と杲は内心で呟き、筌原、と男の姓を口内で復唱した。
 武人の中でも際立って世の権勢を気にしない部類であるので、勿論杲は詳しい事を何も知らないのだが、筌原とは確か先々代当主が一代で財を成した商家で、何時の間にか政界にまで進出していた富豪だった気がする。家督が回って来る可能性は殆ど絶望的な末弟なのか、それとも単に商才が無かっただけなのか、と思うが、しかし、稀代が己の立場に不満を抱いている事はないのだろうと察せられる。此の男の双眸は商人というよりも武人のそれだ。財を増やそうと策を巡らしながら日々を過ごすよりも、寧ろ、武の道を只管に生きる方が余程相応しい様に思われた。
「それでは単刀直入に申し上げますが、先程門外に護衛を一人だけ連れて椛峅の姫君がおいでになり、来栖将軍にお会いになりたいと仰せになっている様で御座います」
 あまりに唐突に、稀代は背筋を伸ばして真面目な顔でそう言う。杲は言われた事に思わず目を瞬かせた。
 予想だにしていなかった稀代の突飛な発言。若い頃から様々な経験を積んで来た杲ではあるが、これには思考が上手く働かず、目前で稀代が何を言っているのか分からない。杲は今相当間抜けな顔をしているであろう事を自覚しながら、稀代に対して率直に困惑を告げた。
「……待て。お前、今、椛峅の姫君と言ったか?あまりに単刀直入で話が見えん」
「失礼致しました。それでは順を追って御報告させて頂きます」
 稀代は座した儘一度腰を折り、礼儀正しく頭を下げてから杲を見据えた。杲もまた稀代を見遣り、その唇が紡ぎ出す言葉を待つ。本当に椛峅の姫君が楢斐に来たというのならば、玖潭の外交上それは途轍も無く重大な事件だ。
「私は本日此方の殿舎にて夜警を命じられていたのですが、つい先程関門の方で騒ぎが聞こえましたので、何事かと思い様子を窺って参りました。直接この目で拝見した訳では御座いませんので詳細は分かりかねますが、椛峅の姫を名乗る少女とその護衛とが突然来訪し、門を開けて欲しいと言ったのだそうで」
「成程な、それで私の名が出て来たのか。そんな事で楢斐の軍団が門を開ける訳がない」
「はい。当然櫓にて任に就いていた楢斐の兵は開門を拒みました。これ以上近付くならば矢を放つ事も辞さないと脅した上で。しかしあちらは怯まない。必死の声音で将軍との面会を要求し、椛峅の国章が印された八咫鏡やたのかがみを懐中から取り出して見せた様です」
「八咫鏡……その神器が実物か贋物か、我々では判断のしようがないではないか」
 杲の言葉に稀代は神妙な面持ちで一つ頷く。杲は一瞬考え込む様にして目を伏せるが、ふと視線を鋭くしたかと思うと卒然立ち上がって稀代に背を向ける。そして手元にあった紐で長い髪を括り上げ、足元に置いてある畳まれた衣を手に取った。稀代が何事かと杲の背中を見上げると、杲が自分の腰紐をすっと緩めたのが分かる。悟った稀代は慌てて眼を逸らすが、杲はそんな稀代の事を気にする様子も無く、豪快に夜着を脱ぎ払った。
 稀代は杲に「椛峅の姫が将軍との面会を求めている」と言ったのだ。当然杲は何らかの対処をしなければならないし、身形を整えなければならないのも明らかである。稀代が己の思慮不足を呪っていると、杲は風を纏わせながら紅緋の衣をさっと羽織る。そして錦袍を纏い腰紐を締め直すと、振り返ってから愛刀を佩し、稀代の反応を見てくつくつと笑った。
「この様な刻限に不躾にも女人の私室を訪れておきながら、今になって申し訳無さそうに目を逸らされるとはな」
 からかいを含んだ笑みを湛えて杲が言うと、稀代は困った様な表情で視線を惑わせる。先程の武人らしい強い口調は何処へ行ったのか、稀代は躊躇いがちに口を開いて頭を下げた。
「急ぎ事態を将軍に伝えねばと思っていたものですから、其処まで気が回らず……無礼をお許し下さい」
「冗談だ、そんな顔をするな。一々気にしている様では将軍の任が務まろう筈も無いし、お前もこれから私の配下としてやってはいけんぞ」
 ひらひらと手を振りながら軽い調子で言う杲。稀代は思わず苦笑を漏らしたが、杲はすっと表情に影を落とすと、纏う雰囲気をがらりと一変させた。檜皮色の双眸が鋭さを帯び、玖潭の将軍たるに相応しい貫禄が稀代を圧倒する。
 成程、女が将軍となるのに反対する声は数多く上がったが、それらを捩じ伏せるだけの力が彼女にはあるのだと、稀代は確かに肌で感じた。
「ところで、お前、この話は他の者には?」
「しておりません」
「任海軍監にもか」
「はい。事態が広く知れ渡ってはならないと思いましたので、何よりも先ず将軍の所に馳せ参じました」
 稀代の言葉に杲は眉尻を下げて小さく笑う。細かな規定が在る訳では無いのだが、平時の慣例として、軍監に遣わされたのでもなければ、軍曹は将軍と言葉を交わす事は出来ない。其れは勿論分かっているのであろうが、そんな下らない慣習など気にも留めず、稀代は将軍の所へ来た。そんな此の男の事が、既に杲は気に入っていた。
「ならば良い。私はこれから関門へ向かって姫に会おう。あちらは何を望んでいるのか、また其の姫君は本物に椛峅の姫なのか、私が直接見極めたい。お前はこれから任海軍監の所に行って事の次第を伝えて来い。ただし、奴以外に此の話を広めてはならん。絶対にだ」
「将軍お一人で行かれる御心算ですか。何があるとも分からないのに、あまりにも危険過ぎます。私に護衛をお命じ下さい」
「いや、良い。姫は私に会いたいと言ったのだろう。私一人で行く。もう決めた」
 言いながら杲は稀代の脇を通り抜けて室の外へ向かう。強く言い放たれた稀代は反駁する事も出来ず、その場で立ち上がって将軍の背中を見詰めた。
 杲は眉を顰めて思考を巡らす。此の男の話だけでは事の全容は分からないが、何か重大な事が起きているのだと、そんな漠然とした認識だけは杲にもある。何事かは分からない。分からないが、徒事ではない。そう思うのは勘でしかないが、久しく味わった事の無い胸騒ぎがするのだ。杲にはそれだけで充分だった。
 ふと、其処で杲は足を止める。関門に行く前に先ず一つ、確かめておきたい事があったのだ。口を噤んで立っている稀代の方を振り返り、「二度目になるが」と言って杲は短く問うた。
「お前、名は?」
 そんな杲の問いに稀代は些か逡巡する。筌原という姓を稀代はあまり好んでいない。豪商としての実家が幼い頃から好きではなかった。だから家を飛び出し武人になったのだが、己が出自はどうしたって変えられない。
 稀代は重い口調で答えた。
「筌原……筌原、稀代と」
 稀代の返答に杲は「そうか」と返し、何が面白いのか、くつりと喉元を震わせて笑う。高く結わえられた櫨色の髪が、さらりと揺れた。
「稀代か。その名、覚えておこう」
 それだけ言うと杲は踵を返して自室を出て行った。残された稀代は杲を追う様にして室を出て、遠ざかって行く杲の姿を視界に捉える。けれど、それ以上動く事が出来ない。何故か稀代は、それ以上杲の背を追う事が出来なかった。
 杲はもう振り返らない。稀代は暫くその場を動く事が出来ず、唯呆然と室を出た所で立ち尽くしていた。だが廻廊に広がる夜の闇へと杲の背中が消え掛けた時、稀代は我に返ってはっとした。自分は何をしていたのだったかと思いながら、慌てて床に膝を付いて将軍に対する礼を取る。杲の姿が暗がりの中へ完全に消えてしまうまで、稀代は唯々其処で頭を垂れていた。





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